2012年11月24日土曜日

親しき仲の気遣いとは!? ~ゼミ生の男女の人間関係~

本日は3年(僕は4年)ゼミ生のゼミプレゼンテーション大会に向けての練習で、あれやこれやと文句アドバイスしてきました。その帰り、4年生で昼飯を食べ、コーヒーを飲みに行ったのですが、その時に一番白熱した話題についてブログを書きたいと思います。



我々のゼミについて

我々のゼミは、明治大学経営学部の中でも比較的厳しいゼミ、いわゆるガチゼミとして知られています。担当教授の小笠原英司先生は経営学部の学部長を歴任し、現在大学院長という重役を務めていらっしゃる、本学部の重鎮と言って過言でないでしょう。

そのような我がゼミにはいくつかの規則があり、無断欠席はきちんとした理由がない場合には除ゼミとなります。そのような規則と並んで、ゼミ内恋愛禁止というルールがあります。どこかのアイドルグループみたいですね。

そのようなゼミを過ごし、、、

我々のゼミの男女関係はかなり良好です。一般的に仲の良いゼミと言って良いと思います。今年はゼミで、明大祭(明治大学の文化祭)に出店しました。特に男女が個人的に惹かれ合うこともなく(僕の知る限り)過ごしています。

そのような友達感覚で、仲の良いゼミです。


発端

先日、3年も交えてもんじゃ会を行いました。
宴会も盛り上がり9時にさしかかるところで、少し遠くに住んでいる4年の女子のゼミ生が席を中座して帰ることになりました。

その時、僕は言いました。

ボク:「誰か送ってけよ」

僕の席はその子から離れており、特別に僕が送るのは変だと思ったため、近くにいた男子に送るように促しました。そうすると、次のようにIくんが言いました。

I:「お前が行けよ」

と。結果、近くにいたSくんが彼女を駅まで送りました。

2次会も終わり全員での帰宅途中、また別の女の子が終電が無くなりそうになり、本体を離れ足早に帰ろうとするのを、今度は僕が一緒に改札まで送りました。

その後、行き先が一緒の本体(つまり、他の男性ゼミ生)と合流し、帰宅することになりました。


今日の議題

今日のゼミ生での議題は、

「男子ゼミ生が女子ゼミ生を送るべきかどうか」

でした。

議論したのはボク、最初の女子ゼミ生を送ったSくん、「お前が行けよ」発言をしたIくん、そしてその日の宴会に欠席したEくんです。基本的には、ボクとSくんが送るべき派、IくんとEくんが送るべきではない派です。

まず、もんじゃ会でのボクの「誰か送ってけよ」という発言の真意を聞かれました。

ボクは以下のように説明しました。
ボク:「女子ゼミ生と話した時に「うちの男子に帰りに送ってもらうという発想がなかった」と言われたから、一応気を使ってみた」

そうするとIくんが言いました。
I:「もんじゃのお店から駅までが遠くないから送る必要がない。特に何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性もない。これが危ないところ、裏路地とか歌舞伎町ならまだしも、危険性がないなら送る必要はない」

そうするとSくんが言いました。
S:「いや、そういう事ではないんだ。気持ちの問題なんだよ。送ってもらった方がいい気分になれるじゃん」と。

そうするとEくんが言いました。
E:「つまり、男子が女子を送るということは、下心があるってことだろ?なんで、うちの女子にそんな気を使う必要があるのか?」

そうするとSくんとボクが言いました。
S:「いや、下心というわけではないんだけど、、、」
ボク「下心がないわけではないけど、別に恋愛につながるような下心ではないんだよ。」

Eくんが下心のない親切に対して次のように言いました。
E:「いちいちそんな気を使う必要ないだろう。それなりに親しいのに、何を今更そんなことする必要あるのか。」

彼にとって、女性を送るという行動は、下心があるのか、それともわざわざ気を使わないといけない関係の場合のみに行われる、という非常にわかりやすい論理なのでした。

Iくんは、経済的、身体的な明らかな損害がないと思われる場合には送る必要がない、というこれまた分かりやすい理由でした。

ボクとSくんにとっては先に帰る女性を送ることが当たり前であり、そのことをどのように伝えるのかが重要な点でした。またこの会話の端々には、女性を送るようにしようという一種の強制のような提案をIくんとEくんに行なったため、議論が白熱してしまいました。


新しい論理展開

議題の方向性を変えることにしました。もし、対象が後輩になった場合にはどうするのかという事でした。

Iくん、Eくん、Sくんの場合には、基本的には性別関係なく送る(そうは信じられないですが)。ボクは後輩が男子だったら、ケース・バイ・ケースで送る、女性なら送る、というものでした。

まず、ボクとSくんは先輩・後輩のケースと同様な思考で女性を送るという発想に至るということを説明しようと考えました。

S:「先輩のお酒がないときに気を使ってお酒を頼んだり出来ない後輩はダメだろっ!?」

そうするとEくんは言いました。
E:「確かにそれはあるけど、女子のゼミ生にそれをやっても今更感がすごいじゃん。」

そこでボクは先ほどの対象が後輩のケースで説明しました。
ボク:「やはり僕達には先輩としてのプライドがあるし、後輩への愛情もあるから、そういうものと同じ要領で女性を送る。」

と、ここでSくんが付け加えました。
S:「女子から、「送る」程度の期待感も煽れない男子としての僕らの姿がダサい」と。


男性としてのプライド

Sくんとボクは自分の理想とする男性像から、女性の期待感を煽れない男性はダサい、というプライドを持っていたのでした。

一方、IくんとEくんは僕らの論理とは全く違うものを持っていました。
彼らは、男性陣に「送る」という発想さえ与えられない女性陣に問題があると考えていました。

つまるところ、
かくあるべきだという男性の理想に差があったのでした。


果たしてこれから送るべきなのか

議論を重ねたところ、両社には埋まらないだろうギャップが有ることが明らかになりましたが、まだ本題である「送るべきか、送らざるべきか」については議論の余地を残していました。

最初に口火を切ったのはIくんでした。
I:「途中で席を中座して場を盛り下げるようなやつを、なんでわざわざ送らないといけないのか」

Sくんとボクが反論しました。
S:「一人帰る程度でそれほど残る奴のテンションが下がることはないと思う。」

そして、むしろ帰る人の気持を尊重し、それが残る人の気持ちに与える影響を似たケース、つまりサークルやバイトでの飲み会を参考に説明することにしました。

S:「例えばバイトの時に、先に帰ろうとする人がいたら、送るだろう。別に駅まで送る必要はなくて、エレベーターまででもいいから送るようにすると思う。」
ボク:「飲み会をするなら、なるべくみんなに楽しんで欲しいでしょ?先に帰る人は席を中座するわけで、どうしても申し訳ない気持ちになったりするわけだ。それのフォローというわけではないけど、一応飲み会の他のメンバーが気にしているということを、たった一人が送るだけで表現できるんだよ。」

そうするとまたEくんが個別事象である我がゼミでの適用必要性について言及しました。
E:「でも、うちのゼミには全体の合意として表現するべき気遣いがないわけだから、だったら送る必要はない。」

ここまで来て送るべき派であるボクとSくんは、新たな説得方法を思いつきませんでした。


ギブ・アンド・テイク

ここで個別関係に普遍的な原理を応用してみることにしました。いわゆるギブ・アンド・テイクです。
お互いに何かを与え合わなければ関係を保つことが出来ないということです。

ここでEくんとIくんは、特に女性陣から何も与えられないから与える必要はないと主張しました。

一方、Sくんは次のように言いました。
S:「ギブ・アンド・テイクって言葉にある通り、ギブしなければ始まらないんだから、まず送ってもいいんじゃないか」
それにボクが付け加えました。
ボク:「つまり、僕らが女性陣を送るんだから、僕達が先に帰るときには女性陣に送ってもらうことは、それなりに要求しよう」

ここまで来て、円滑な人間関係、組織運営という新たな主眼を得て、EくんとIくんは自ら結論を得ることになります。


エレベーターの法則

Eくんは、エレベーターの法則という彼なりの倫理観からこういう結論を下しました。
E:「つまり、女子を送るというのは、エレベーターに一番最初に入ったやつが、エレベーターの開くを押すのと同じわけだ。別にその場でギブが返されなくても、社会全体として還元されればそれでいいってことか。」
I:「そういうことなら分かるわ。」

結果、彼らはエレベーターの法則という、彼らの社会生活上の倫理観から新たに女性を送るという価値についての存在を認めることになったのでした。


結論

しかしながら、まだ個別事象としての我がゼミでの場合について考えるEくんは
E:「でも、基本的には下心があるやつが率先してやるから、今更やるのは気持ち悪い」

そこで、ボクが言いました。
ボク:「分かった。ボクとSには、別に恋愛に繋がる下心があるわけではないけど、それなりの下心があるわけだから、絶対に下心がないEとIがやればいいんだよ。そうすれば、Eの心配はなくなる。」

こうして今後はEとIが女性陣を送るという結論に至りました。


追憶

この話し合いを経て、ボクが過剰に女性に対して気を使っていることが明らかになりました。それはやはり浪人生までのボクの価値観が強く影響していると言ってよいでしょう。

ボクは基本的な男性のヒエラルキーがあまり好きではありません。それは自分のヒエラルキーが低いことはもちろん、上位のヒエラルキーの下位への扱いが酷いと感じるからでした。ヒエラルキーの内部にいる以上、そのような下位への不躾な対応もしなければなりません。

そこでボクはヒエラルキーを離れることにしました。そこで利用したのが、女性陣の力でした。普通よりも女性陣と仲良くすることで、男性陣のヒエラルキーとはまた違う方法で自分のポジションを整えるようにしました。

そのため女性陣の機嫌を損なわないようにすることは、ボクにとっては死活問題でした。それが女性への過剰な対応に繋がっているのではないでしょうか。

皆さんは、飲み会で先に帰る女性を送りますか?

2012年10月15日月曜日

TEAM NACS ~彼らの関係性~


こんにちは、こんばんは。
お酒の飲んだ勢いでこのエントリーを書いてます。
KoR89こと、畠山薫です。


『TEAM NACS』

TEAM NACS(チーム ナックス)という演劇グループをご存知でしょうか?

俳優・大泉洋が大学生時代から参加する演劇グループです。
Wikipediaを参照すると、以下のようになります。

TEAM NACS(チーム・ナックス)は、日本演劇ユニット。及び、北海道ローカルのテレビ番組に多数出演をするグループ。
北海道札幌市にある芸能事務所・CREATIVE OFFICE CUEに所属し、大手芸能事務所アミューズと業務提携を行い「北海道以外の全国区の仕事は、全てアミューズが手がける。」と言うシステムを執っている。
彼らの最大の特色としては北海道発、そして北海道を中心に活動していることです。(もちろん大泉さんは全国区に活動の軸足を移しているように、他のメンバーもリーダー・森崎さん以外は活動の軸足を全国に移しています。)

彼らの最新公演「WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン〜」では、「今、もっともチケットの取りにくい劇団」と評されるほどに、その勢いは演劇界に一目置かれる存在になったのではないのでしょうか。

彼らの公演は東京に進出した「LOOSER」から前作の「下荒井」に至るまで、一貫して5人だけで公演を行なって来ました。(最新作から他の劇団員も参加しています。)彼らはたった5人で、年約60公演を行って来ました。

彼らの魅力はなんといってもその仲の良さです。
大学のサークル(北海道学園大学・演劇研究会)を母体とした、いわゆるサークルのりの関係性は多くのファンを惹きつけています。特に彼らの冠番組である「ハナタレナックス」では、その仲の良さを垣間見ることができます。DVDも発売されているので、ぜひ購入していただきたいです。

しかし、彼らの関係性は決して順風満帆なものではなく、解散の危機があったことが5月に放送された「ハナタレナックス」で示唆されています。

解散の危機

解散の危機をファン(僕を含めた)が感じていなかったかと言われると、実はそうではありません。

2000年前後の関係性は、所属事務所の社長である鈴井さんが企画・構成していた「鈴井の巣」を見ても分かる通り、かなり良好のように感じられます。まだ20代のメンバーが多く、雰囲気もこれからの生活の不安もなく明るいものに感じられます。

その後「ハナタレナックス」は始まり、当番組で例年行われる沖縄ロケなどを見ても彼らの仲の良さを伺うことができます。その後の東京進出と彼らは演劇人・芸能人として確実にステップアップして行きました。

しかし、その関係に反比例して彼らの関係性は変わって行きました。

まず、大きくステップアップしたのは大泉洋でした。
大泉洋は、昨年2011年の日本アカデミー賞主演男優賞を取るような、日本を代表する俳優に成長しました。彼の活動の軸足もすでに北海道にあると言えないほどに、東京に移されています。彼は実に多忙で、「ハナタレナックス」をはじめとする『TEAM NACS』の活動に確実に支障をきたすようになり、大泉洋自身が番組内で「こんなことするために北海道に帰ってきたのか」という発言を度々繰り返すようになっていました。

元々、『TEAM NACS』自体が大泉洋の人気におんぶに抱っこの状態から始まりました。
メンバー自身も当時から認識していたのように、「水曜どうでしょう」で人気を博した大泉洋を使って集客し、他のメンバーの魅力に気付いてもらいながら客足を伸ばすという戦略を取っていました。

もちろん今では大泉洋・一強時代は終わりましたが、圧倒的に大泉洋が知名度が高いことは変わりありません。それが以前までは北海道内で収まっていましたが、現在では全国区になり単純に知名度の差は以前よりも大きいのではないのでしょうか。

次に森崎さんを除いたメンバーの東京進出です。大泉洋に続き、他のメンバーも続々と東京進出を果たすようになります。彼らの中には、「東京に進出して全国区で成功することは、北海道内での評価を更に高めることになる」という認識があるようです。

東京に進出することにより、仕事の幅も種類も多様になり、メンバーも「自分のやりたいこと」が見つかるようになったようです。

そうしてメンバーの方向性が徐々にズレて行ったのが、解散の危機の一つの原因でした。

もう一つの原因は、関係が煮詰まってしまったことでした。
彼らは、「LOOSER」の東京進出、そしてその後の全国公演というプレッシャーをたった5人で背負うことになりました。おそらく所属事務所であるOFFICE CUEが、他の劇団員を客演として呼ぶ程の金銭的な余裕がなかったのではないのでしょうか。

その全国公演のプレッシャーに、リーダーで作・演出の森崎博之は結果的に意見をメンバーに求めるようになります。以前の「WAR」のメイキングを見ると分かるように、森崎博之がメンバーをかなり引っ張っていた印象があります。

しかしながらメンバーが作品に意見をいうようになり、結果的にみんな納得のいく作品(脚本)を作り、それを演じるというスタイルに変わって行きました。結果、メンバーの話し合いで議論が平行線をたどり、行き詰る時間も多くなったようです。

そのようにして結果的に誰かが我慢しながら作品を作ることになり、これが演劇することにこだわりをもつメンバーにとって亀裂を生む原因になったようです。

結論としては、メンバーの方向性の違いと演劇への意見の相違が、私達の分かる解散の危機の原因でした。

「WARRIOE」

一時は解散の危機さえ感じた関係性が近年、特に「WARRIOR」を迎えるにあたってかなり良くなった様にいちファンとしては感じています。その関係性は、2000年前後のそれに近づいているように感じています。

彼らの心境の変化とは一体何だったのかを正確に知ることはできませんが、森崎博之の「死ぬときに思い出すのは、家族と「TEAM NACS」だ。それぐらい僕にとって大事な存在である。」という言葉に全てが現れているのではないのでしょうか。

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズもガンを期に人生観が変わったことを告白していますが、死を意識することが考え方に与える影響は計り知ることが出来ないのではないのでしょうか。もし余命が1年しかないと言われたら、今もっているもの(家族、友人、同僚など)を大事にするのではないのでしょうか。

彼らは、やりたいことが見つかる30代の終わりを迎え、自分が本当に大切にしなければならないものを知りました。

まさに『論語』の

「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したご)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」http://www2s.biglobe.ne.jp/~kuribou/rongonokotoba.htmより)

の道中にいるのではないのでしょうか?


2012年10月9日火曜日

『オタク・イズ・デッド』 ~オタキング・岡田斗司夫の玉音放送~

こんにちは、こんばんわ、KoR89こと畠山薫です。
急に寒くなって、風邪を引いてしまいました。しかも、季節はずれの花粉症のように鼻が痒いです。


オタク界の玉音放送

私がよく見る動画の一つに、岡田斗司夫さんがLoft+1で行った「オタク・イズ・デッド」というものがあります。



この動画は、岡田斗司夫さんが2006年5月24日に新宿ロフトプラスワンで行った講演会のものです。このころの岡田さんはまだ体型もふくよかで(また最近恰幅が良くなられてきましたがw)、誰もが「いつまでもデブだ」と思っていました。

田斗司夫さんは長らくオタクの王様、「オタキング」を名乗ってきたわけですが、その国民たるオタク達がすでにいなくなり、オタク王国が滅んだことを王様たる彼自身の口から宣言された、まさにオタク界の玉音放送でした。

岡田さんは、SF界からアニメ業界、そして最終的には評論の世界に足を踏み入れた変わり者だと思われますが、彼がオタクをどう見ていたのかをまとめてみたいと思います。

オタクの定義

彼のオタクに対する不信感は2005年ごろから徐々に確信に変わってきたようですが、オタクが死んだことを宣言する時に必要なのがオタクの定義でした。さまざまな論者によって行われたオタクの定義を踏まえて、彼はオタクを以下のように定義しています。

「好きなものは自分で決めるという強い意志と、           
           それを継続させることのできる知性をもつもの」

このように定義すると、さも偉大な人間に思われますが、岡田さん自身も「オタクはオタクであることで普通の人間を超えた存在」と言うように、酔狂ではなく信じるからこそ、彼は「オタキング」を名乗っていたのです。

まず簡単に整理すると前半の「好きなものは自分で決めるという強い意志」の部分は、12月の末はクリスマスではなくコミケを選ぶや、ワールドカップなんて見ないでアニメを見るなどが挙げられます。この資質は、子供の頃の早い段階に獲得されなければならないものと岡田さんは考えており、ある意味先天的な資質であるため、のちのオタク貴族主義につながると考えていました。

後半の「それを継続させることのできる知性」の部分は、オタクは絶えず一般の人から「どうしてそんなものが好きなのか?」「そんなものを好きで価値があるのか?」という問いを浴びせかけられます。それに対し説得的にかつ、一般の人にも分かるように答えていかなければなりません。このたえざる問いに答えらえるだけの知性が必要なのです。この知性へのこだわりが、のちのオタクエリート主義につながっていったのでした。

この定義で重要なのは、アニメファンもミリタリーファンもBLファンもすべてが一様にオタクなのです。何を好きであるかは本質ではなく、それを支える精神性が重要であると岡田さんは考えています。また語義的にはオタクが主で、ファンが従の関係です。

オタク貴族主義とオタクエリート主義については、後々触れていきたい思います。

SFファンの歴史

オタクと同様にSFファンも過去に死に絶えました。その理由は、SFファンの拡大したからでした。

漫画にもアニメにも、そしてSFにもエポックメイキング的な作品が数多くありますが、例えば岡田さんが挙げるSFファンを終わらせた作品は「スターウォーズ」でした。

「スターウォーズ」はSFファンならずとも、楽しめる作品です。この作品によりSFファンが急増しました。しかしながら、同時にその中には流行っているから好きだという「にわかSFファン」も存在しました。そこには「強い意志」は含まれていませんでした。

また、これまでのSFファンなら当然知っていたようなSF古典に対する知識などが急速に失われてしまいました。「スターウォーズ」に関する情報を欲するものの、他のSF作品に興味を示すものは少なかったそうです。

背景には、みんなの知っている(つまり、弱い意志によって)スターウォーズの情報が欲しいという欲求と、誰もが「スターウォーズ」を認めているため、スターウォーズをはじめとするSFを好きな自分を擁護する知識が不必要になったことがありました。そのため知性は不必要になりました。もしくは、スターウォーズに対する知識のみが求められました。

このようにSFファンは、もともと持っていたファン内の強い連帯感(つまり、後に続くオタク気質)を失ったのでした。

オタクの歴史

SFファンももちろん気質的にはオタクです。しかしながら、SFファンはオタク的グループの中でも早い段階でオタク気質を失いました。

岡田さんは、オタクを、オタク原人、オタク第一世代、オタク第二世代、そして第三世代と分けて考えています。岡田さんは、自身を第2世代であると考えています。その10年弱上の世代が第一世代、そしてさらにその上をオタク原人(オタク的気質を持っているが、完全なオタクではない)と考えています。

オタク原人についてはあまり触れられていませんが、第一世代をオタク貴族主義者、第二世代をオタクエリート主義者と考えているようです。この両者の違いは、オタクの定義の中の強い意志を強調するか、もしくは知性を強調するかで変わってきます。

第一世代の貴族主義者は、自身をオタクと認める強い意志を強調します。その背景に情報の入手困難性をあげています。特定のもの、そのもの情報が入手困難であるようです。つまり、現在進行中で進歩していたり、もしくは全集のように情報が整備されていない状況では、知識(知性)を強調することが困難であるのです。そのためオタク貴族主義者は、周りから認められたいという欲求自体は極端に低いそうです。

第二世代のエリート主義者は、自身のもつオタク的な知識(知性)を強調します。その背景に、情報が完備されたことを挙げています。例えば、不朽の名作がそらった全集があるので知識を受容する環境が整備されているわけです。そのため知識を強調するようになります。また、岡田さんは直接的に述べていませんが、自己と他者を区別するために知識の量を競うことが多々あったそうです。

結果的にオタクの知性を強調する人が多くなり、完全にオタク的気質を持っているものでさえ、「自分はオタクとしてはまだまだです」という謙遜をするものが増えたそうです。

オタク第三世代

オタク第三世代とは、つまりオタクの総数が多くなりオタク的な気質(強い意志と知性)を失った世代のことです。オタク全体(つまり、SFファンなどの特定のジャンルではなく)が徐々に増え市民権を持った背景を岡田さんのストーリーで説明すると以下のようになります。

やはり、オタクは蔑まれる存在として扱われることが多かったそうです。非オタクが好きにならないものを好きであるということを、周りから奇怪な目で見られたそうです。しかし、その中には明らかにオタク的な気質を持たないものがいました。つまり、オタク的な印象(根暗等のネガティブな印象)を持つもの、つまりその人の生来の気質として根暗な人もオタクとしてカウントされました。彼らは決してオタク的気質を持っていないにも関わらず、ただ性格が暗いというだけでオタクと考えられました。このようなオタク人数の水増しがあったそうです。

次にあったのは、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」でした。犯人の宮崎容疑者はオタクでした。これによって、オタクに対する風当たりは強いものになって行きました。もともとオタクは自身をオタクとして世間に対してアピールすることはないにも関わらず、更にオタクは肩身の狭い思いをするようになります。

ここでよく勘違いされるのは、オタクをアニメ・マンガファンと考えられることです。岡田氏が言うには、アニメ・マンガファン(さらにこの内部でも細分化されますが)はオタクの一部でしかなかったのでした。ファングループが肩を寄せ合い数を大きくしていたのが、オタクでした。

そのようなオタクの風当たりの強い状況に変化が起こりました。

経済的な停滞がオタクに対する評価を変えました。アニメ・マンガは輸出産業になることが徐々に明らかになったのです。そのため産業界の停滞感も合わせて、アニメ・マンガに対する期待感も生まれ、アニメ・マンガファンをオタクだと断定する世間の認識ともにオタクが注目されるようになります。

その後「電車男」等を経て、世間に対して自身をオタクであると宣言することがはばかられる状況が薄らいできました。こうしてオタク第三世代が生まれました。

このオタク第三世代の特徴は、自身をオタクと認めること(知識面を強調し謙遜しないこと)、そしてその大半がアニメ・マンガファンであることです。もちろん総数が増え、特定のものを好きになるために必要な強い意志も弱まりました。アニメ・マンガファンをオタクとする認識は他の領域のオタクとのコミュニケーション不全を起こし、結果オタク大陸は消滅しました。

『オタク・イズ・デッド』

オタクはもともとマイノリティという状況を打破するために、オタク人数を増やすことを自ら望んでいました。しかしながら、目的を達したがためにオタクは内部崩壊をしてしまったのでした。岡田さんは最後にこういう結論に至ります。

「今やみんなが肩を寄せ合ったオタク大陸というものがなくなり、本来的にオタク的気質をもつものは孤独になってしまった。だから個々人が強い意志を持つことがまた必要になった。そして、人から理解を得るために、自分が何を好きなのかを人に伝え続けなければならない。そうやってまた仲間を増やして欲しい。」

つまり何十年にもわたり作り上げたオタクのコミュニティは崩壊し、コミュニティがない時代に戻ってしまったのでした。

さいごに

岡田さんは、自身のことを正確には第一世代と第二世代の中間の存在として考えていたようです。「強い意志と知性」の両方を完全に備えると自分で自負するからこそ、オタキングと自身で呼ぶことができたのだと思います。

この話は、「オタクはすでに死んでいる 」(新潮新書) [新書]にまとめられています。

岡田さんは、オタクについて人間関係を軸に考えました。僕もオタクについて別の視点、好きなモノを中心とした目的を軸に考えていきたいと思います。

2012年8月19日日曜日

いじめっ子の君へ 〜僕の説得〜


大津の例の事件を境に「いじめられている君へ」という投稿が目立った。彼らはいじめの我慢の仕方を永遠と説いた。しかしながら一方で、「いじめっ子」へのいじめを止めるための投書は少なかった。どうして彼らは「いじめっ子」に目を向けないのか。おそらく彼らは、いじめがなくならないことを知っているのだ。そうだ、大人の世界でもいじめはある。いじめはなくならない。‘広く’はそうである。

しかしながら、‘狭く’なら分からない。自分の周りの世界だけは、いじめのない理想の世界にできるかもしれない。文章の力を信じ、その力で生活する評論家や著名人は自分の筆の力を信じ、理想を叶えるべきであった。しかしながら、いじめられた子の血で書かれた彼らの文章は、いじめられっ子に更なる我慢を強いた。彼らはいじめに屈し、敗北した。

それでも12歳の子供がいじめっ子に向け、いじめを解決するために筆を取って、自分の言葉で語りかけている。彼女は、まだいじめに負けていない。もちろん勝ってもいない。僕も彼女に励まされ、僕なりの理論と言葉でいじめっ子に語りかけてみたい。


いじめっ子、君は勝者だ。

いじめっ子の君へ。

もしかしたら周りからいじめだと言われても、君からしたらただ遊びでイジってるだけかもしれない。だから、ここで君に何がいじめなのか定義したい。

例えば、いじめている子より君が優れていないと言われたら、君は非常に苛立たしいのではないだろうか。理由は分からないが、君は言いようのない怒りにかられ、君はその子には勝っているという気持ちを強く持つのではないだろうか?

もしその子が君の言うことを聞くのならば、君のその感情は100%正しい。君はいじめられっ子に精神的に勝利している。君の言うことを聞くその子は敗者で、君は勝者だ。

自分を勝者だと思い、いつでも、どんなことでも敗者に言うことを聞かせること、これが‘いじめ’だ。


いじめっ子、君は決して謝るな!

いじめっ子の君へ。

君は決して謝ってはならない。謝った瞬間に君は敗者になる。謝罪とは敗者の行動だ。君は常にいじめられっ子から謝られる勝者のハズだ。

しかしながら、そんな勝者である君を敗者にする存在がいる。君は万能の勝者ではない。そう、君は先生や親という存在に、大人にあっさりと敗北する。

君は勝ちすぎてはダメだ。勝ちすぎると目立ってしまう。

勝ちすぎると、それを打倒するさらに大きな力が現れる。親、先生、地域、警察と君の周りだけでも君よりも強い存在がこれだけある。勝ちすぎると彼らは君の存在に気づくことになる。

だから君が今とるべき戦略は、負けないように勝ち逃げすることだ。

小さな勝利も積み重ねてはいけない。もしいじめられっ子が先生に言えば、もし周りの正義感の強い生徒が警察に届けたら、もしいじめられっ子の親や近所の人が気が付いたら、、、リスクはどこにあるか分からない。いじめがバレた瞬間に君の敗者になるのだから、君の勝利は本当に砂上の楼閣でしかない。もしかしたら君の城には、もうこれ以上勝利は積めないかもしれない。

君のために言っている。いじめは止めるべきだ。


いじめっ子、君は本当に勝者か!?

いじめっ子の君へ。

君は永遠の勝者でいられるのだろうか。この先君が年を取り、高校、大学、社会人になるにつれて、君が触れる世界が広がるにつれて、君がまったく敵わない人物に出会う。君はまさしく井の中の蛙であったことを知る時がいつか来る。

自分の本当の実力を知りたければ、すぐに自分の世界を広げるべきだ。君がもし運動が出来るならば、部活動だけじゃなくて地域や年長のチームの練習に一度参加させてもらうといい。君の本当の実力が知ることが出来るだろう。しかもそれだけではなく、君はステージを上げるだけで、新たな実力をつけることが出来るはずだ。君にほんの少しの勇気があれば、世界を広げるというのは良いことばかりだ。

でも実際には、君は今の場所の居心地が良すぎて、そこを離れる気にならないはずだ?

いじめる相手に対して常に虚勢を張っていられるその場が心地いいのではないのだろうか。君はまさしく猿山の大将だ。きっと君のクラスメートは、君の行動を心の内では馬鹿にしている。君は小さな学校という檻の中で、ウ○コを投げてくる猿と大して変わりない。

猿山の大将から本当の勝者になるために、君は新たな世界に足を踏み入れるべきだ。そうして本当の実力をつけるべきだ。そうなった時、いじめは君の貴重な時間と労力を奪う本当に馬鹿げた行動にしか思えなくなるはずだ。


永遠の勝者たれ、いじめっ子!

今、君が誰かをいじめることが出来ている時点で、君は勝者だ。しかしながら、いじめ続けるだけで少し先の未来で、そして遠い未来で君は敗者になってしまうかもしれない。それは、君が現状に甘んじているからだ。もしくはその場の快楽にまかせて堕落しようとしているからだ。いじめは甘えだ。自分に厳しくなれ。そうすれば君の前にはまた勝利が舞い込んでくるだろう。

僕は君が永遠の勝者であることを祈っている。

2012年8月4日土曜日

本日のお酒〜幻滴〜

今日はバイト先の上司の結婚旅行の帰り土産と共にお酒を頂きました。
その名も「幻滴」。


本日のお酒

幻滴」は、12年古酒(クースー)と3年古酒を混ぜたブレンド古酒でした。

ブレンド古酒はあまり意識して飲んだことはありませんでしたが、ウィスキーのような強いアルコールと甘い香りがしてどんどんとお酒が進んでしまいました。

泡盛とはウィベディアによると米麹の一種によって醸されたお酒ということでした。しかしながら、日本酒というよりも焼酎に近い雰囲気が醸されていました。

25度で比較的お酒は強かったでしたが、ウィスキーのような甘さでどんどんとと進んでしまうお酒です。


その他


バイト先では新卒の採用を始めるようで、バイトの僕らがその作業をお手伝いをするという、新卒が新卒採用を行うという一種の倒錯した状況ではありますが、僕は楽しんでいます(実際は、ただの事務作業の代行ですw)。

いわゆるベンチャー企業が、これから新卒採用によって事業規模を大きくする様子を見ることの出来る、数少ない機会だと個人的には考えています。

2012年8月2日木曜日

YouTubeからfacebookへの大量自動投稿

一時期、アダルトサイトをクリックすると勝手にfacebookのフィードに投稿されるという、何とも恥ずかしい現象がありましたが(ちなみにぼくは被害者ではありませんw)、今日のボクの事件も似たようなものでした。

僕のYouTubeの使い方

僕は正真正銘のYouTubeのヘビーユーザーです。お気に入りには大量の動画がありますし、コメントもしますし、寝る時はYouTubeを見ながら睡眠します。非公開設定で、YouTube日記を付けたりもしています。そんな僕は勉強する時も、極端に集中したいとき以外はずっとYouTubeをバックグラウンドに流しながら勉強しています。

今回勉強中に自分の好きな動画だけを無限に流せるよう、お気に入りの項目を増やしてフォルダの中身を自動再生させようと考えてました。そこでお気に入りに無造作に置かれていた動画をそれぞれのフォルダに移していました。

事件の顛末

大体の動画を移し終えfacebookのフィードを眺めてみると、移した動画の更新情報が自動的にfacebookに投稿されていました。

そうです、僕はYouTubeとfacebookを連携させていたのです。


その中でお気に入りの更新もfacebookに反映されるようにしていたため、逐一動画一つ一つの移動が投稿されていました。その数なんと100以上。facebookに一気に大量な投稿が起きてしまい、フレンドに迷惑をかけてしまいました。

その後YouTubeからの投稿をブロックし、表示されなくなったことを確認した後、再度連携させたのですが(痛い目あって、まだ連携させるのかと思われると思いますがw)、またもや勝手に投稿されてしまいました。「あぁ、全て主導で投稿を削除しないといけない」と思い、結果1時間近く削除に時間がかかってしまいました。

思うこと

facebookのアクティビティログには、是非チェックボックスを作って欲しいです。

今やfacebookは個人アカウントのハブなので、僕みたいに様々なサービスと連携させている人は多いと思います。誤作動で大量の投稿が起きてしまう可能性もあるわけで、チェックボックスさえあればいちいち削除の確認をしなくて済むだろうと考えられます。

しかしながらこういう痛い目に会いながらも、それでも僕はYouTubeとfacebookの連携を止めません。

僕は様々なSNSに名前だけでも登録していますが、それらはなるべく同じアカウント名を使うようにしていますし、おなじキャプ画を使うようにしています。そうすることでインターネットで自分の名前が見つかりやすくなるのではないかと考えているからです。つまり、自分の名前がGoogle検索に引っかかりやすくなった方がいいのではないかと考えています。

そうした方が、実名のリスクもありますが、遙かに恩恵が大きいのではないかと感じているからです。「情報やサービスはすべて連携させる」というボクの考えは変わりません。しかしながら、その内容についてはもっと注意した方がいいのではないかと感じてました。

2012年6月27日水曜日

【AKB48】恋愛禁止条例〜指原事件より〜

前回のエントリーが尻切れとんぼのようになってしまいましたが、考えがまとまりませんでした。「票は愛である」思想がAKBメンバーに与える影響については、また改めてエントリーをしようと思います。


6月初めに総選挙があってひとまずAKBブームも落ち着いたかなというところで、元AKB48チームA指原さんの過去の恋愛が、信憑性が高い写真とともに掲載されました。あまりのタイミングの良さに、少し勘ぐりたくなるところではありますが。

写真の真偽は2chでも話題となり、2chの検証結果はかなり信憑性が高いものになっているのではないのでしょうか。


2chの調査能力の高さに、改めて驚いてしまいました。こういうのが集合知なんじゃないかと、経営学を学ぶ私としては興味深いものがありました。


恋愛禁止条例

さて前回前々回のエントリーで、アイドルを「いくらでも愛して良い偶像」と定義しましたが、なぜそれが恋愛禁止条例につながるのかを考えたいと思います。

前回も図で示したとおり、アイドルはファンに対して愛を返さないというのが原則でした。(AKBでは「愛を返すこと」がテーマだとは思いますが。)なぜなら、返される愛には、「愛の告白の責任」が発生してしまうからです。
ファンが「愛の告白の責任」を感じずに愛を表現し続けていたある日、アイドルから個別的に私信があったとしてます。もちろん第三者にはバレないようにです。このように愛が返された場合、純粋なファンでいたいと思うのならば、私信を無視すれば良いハズです。

アイドルがファンに私信をした時点で、ファンには私信に返事をするか、無視するかという「愛する自由」と「愛されない自由」の選択肢が出現します。この瞬間から「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」から逃れてきたファンは、現実世界にまた引き戻されることになります。

もちろん「愛する自由」を行使したら最後、彼女がアイドルであるという「責任」を引き受けることになります。そのプレッシャーは、「愛の告白の責任」をより明確に感じさせるのではないでしょうか。

つまり、恋愛をしたアイドルは、

アイドルからただの女の子になってしまうのです。





ディスコミュニケーション

まず恋愛をした瞬間からアイドルとしての価値を著しく損なうことを説明しましが、付き合っている人の前では「女の子」でも、その他のファンの前では「アイドル」なのだから変わらないハズです。しかしながら、恋愛禁止条例は確かに存在します。


つまり、特定の関係が他のファンに影響を与えるという倫理観や道徳観が、ファンの中で共有されているということです。


まずアイドルとファンの関係とは、ディスコミュニケーションによって成立しています。「いくらでも愛していい偶像」には、コミュニケーションが取れない存在だという前提があります。


アイドルが感情を表現する存在だとしたら、コミュニケーションには正解があります。「Why?」と質問されて、「Yes, I do.」とは答えることは出来ないのと同様に、一定の答えがあるはずです。


例えば、秋元康さんは指原さんと過去のアイドルを比べた時、トップアイドルはあんまり喋らないことを強調していましたが、それもディスコミュニケーションの一例なのではないのでしょうか。


しかしながらアイドルが誰かと恋愛関係にあるということは、アイドルとのコミュニケーションには正解があったということです。特に、相手がファンをはじめとする一般人の場合はなおさらです。

一方で他のファンにとっては、これまでの愛情表現が不正解であったことが明らかになり、それ以降もファンであるということは、常に最善のコミュニケーションを取らないという決断をすることと同義です。

このディスコミュニケーションと不正解の現実に、ファンは耐えられないのです。


アイドルは恋愛をするという歴史的にも明らかな現実を直視しないファンの姿は不思議ですが、目の前に横たわっている「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」の方がはるかにリアルに感じられ、それらからの逃避を優先しているのではないでしょうか。


アイドルの”処女性”

私は「恋愛禁止条例」の付随する”処女性”は、アイドルの本質ではないと思っています。


私の知るかぎりでも、モーニング娘。の保田圭中澤裕子など、現役当時でも”処女性”からかけ離れたアイドルがいました。その一群は例外で括れないほど多く、また存在感があると思います。




また”処女性”を乗り越えて女優やタレントになったアイドルも同じように多く見られます。”処女性”だけをウリにして生きていくには、限界があるからです。


それでもアイドルの”処女性”に信仰があるのは、それが恋愛禁止条例が守られているという担保になるからです。




以上のように、恋愛禁止条例について考察してきましたが、恋愛禁止条例には実は裏ルールがあるのではないのかというのが、私の予想です。というか、こっちが本題です(笑)

それでは、また次のエントリーで。。。

2012年6月9日土曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part2


最近在宅オタを卒業した私は、実際に劇場に行ったりライブに行くと本当に

「愛してる」
「超絶可愛い」

などの、日常では絶対に使わない言葉を叫んでいるファンの方に驚いてしまいます。

ちなみにオタク特有だと思われている「萌え~」のような言葉を発する人はいません。アレは人間を褒める言葉ではなく、基本的にはアニメやマンガに対しての褒め言葉のようですね。


アレを見ると思い出すのは歌舞伎です。
高校生の文化鑑賞で歌舞伎をわざわざ横浜から東京まで行ったのを思い出します。基本的にAKBも歌舞伎も、劇場を持っているあたりが似ていますね。

そこでも、「中村屋~」など叫んでを、座席の一番後ろで観客をリードする人がいました。


前エントリーの振り返り


さて前回のエントリーで、

アイドルとは、いくらでも愛していい偶像である

と定義しました。

発想は、大島優子さんの「票数は愛である」発言でした。いくらでも愛していいという需要の背景に、「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」などの要因を挙げてみました。

それでは、そのうえで「票数は愛である」という思想はどのような影響を、48メンバーやファンに影響を与えているのかを考察してみたいと思います。


「愛=金」という図式

他のエントリーで、AKB総選挙には正義があるのかという、ハーバード白熱教室のサンデル教授並みのアツさでペンを握られている方も多くいました。その中では、票が金で買えること、その票を愛とAKBメンバーが呼ぶことに対する嫌悪感を示されていました。

これは、まさしくサンデル教授の言うところの功利主義です。全ての事柄(愛や好意を含めた)を一つの基準によって測ることが可能なのかという問いです。

白熱教室では、サンデル教授は以下のように言っています。


つまり、「人が重んじていることや、大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであり、ミミズであれ、一律の価値基準にあてはめることができない」ということだ。  もし後者(一律の価値基準にあてはめることができない)が正しいとすれば、功利主義の道徳原理は崩れてしまうことになる。(出典:ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業[上]P.74)
逆に言えば、一律の価値基準にあてはめることを正当化できる倫理や論理があるのならば、愛を金を測ることが可能であるということです。そして、それは日常生活の範囲である必要ではなく、アイドルとファンという限定された空間で有効性を持てば良いのでしょう。

私の定義では、「アイドルとは、いくらでも愛していい偶像」であるため、与えられるものは例えお金であっても、愛と呼ぶことには彼女たちの存在意義に合致します。これこそがアイドルの功利主義を肯定する唯一の倫理観なのではないのでしょうか。


アイドルとファンの愛の形

一般的に他人に愛を告げると以下のようになります。


このように一方に愛を告白した場合、もう一方それを受け入れるか拒否するかのどちらかを選ぶ必要があります。決断を保留することは、自由恋愛市場不全を引き起こすため許されません。

左側のように愛の告白が受け入れられた場合、形式上お互いに好意を持っていることになります。好意を持つとお互いに相手の行動を制限し合うことになりあます。これが前のエントリーで示したところの「愛の告白の責任」です。

一方右側のように断られてしまった場合、好意を持ち続けても良いですが、基本的にはそれを日常生活では表に出さないように努めると思います。結果的に自分の好意を、表現することさえ暗に禁じられてしまいます。

結果的には、受け入れられても断られても、愛の告白が引き起こす閉塞感や束縛感をどうしても拭うことができないのです。これが「自由恋愛市場」において引き起こされる出来事でした。


アイドルの場合では、以下のようになります。


非常にシンプルです。

アイドルは一般的にはファンからの愛の告白を拒否することはできません。一方、ファンは直接的にかつ恣意的にアイドルから好意を示されることはありません。これこそAKBのいうところの「恋愛禁止条例」にあたります。原理的に言えば、アイドルには彼氏はおらず、恋愛もしてはいけないからこそ、全ての人から愛を受け入れることが可能になっているのです。

このようにファンは何も与えられない代わりに、「自由恋愛市場」と「愛の告白の責任」から解放され、自分の好意を無制限に表現することが可能になり、アイドルは、「どれだけ愛してもいい偶像」として存在します。

48グループというアイドル

上記のような形がいわゆるアイドルの雛形でした。しかしながら、その雛形の枠からはみ出した存在こそが48グループというアイドルです。枠からはみ出した大きな要因が「会いにいけるアイドル」というコンセプトです。

「会いにいけるアイドル」とは具体的には、「劇場に行けば会える」、「握手会で握手しながら話せる」、「写メ会でツーショット写真が撮れる」、そして案外重要なのはインターネット上の「ブログで一日の行動を知れる」や「SNSでコミュニケーションがとれる」といったものです。他にも、メールを送ってくれるサービスもあるそうです。

このようにAKBは自分の日常を切り売りして、仕事ではなくアイドルという人種として生活しています。これはプロテスタンティズムが「世界の魔術からの解放」を行ったとに、多少ながら似ていると思います。

しかし、「会いにいけるアイドル」というコンセプトは、アイドルとファンの間に別の作用を及ぼしました。それは、アイドルによる特定のファンに対する認知が高まったことです。足しげく何度もメンバーに会いに行くと、自然と名前と顔が一致してくるようになったのです。

そして、ファンはアイドルから認知されるようになって、忘れたはずのある感情を思いだしたのです。


それこそ

「愛の告白の責任」

です。

自分が「ファンです!応援しています!」と言っても、相手が本当に喜んでくれているのか分からののです。形式的には、「嬉しいです!ありがとうございます!」と答えてくれても、それが建前でないという保証はどこにもありません。かといって付き合ってくださいと申し出ることは、アイドルとファンという関係の終焉を表します。そのようなジレンマに気が付いたのはアイドルとファンの間に、個々の特別な関係(顔と名前が一致するような環境)が生まれたのが原因に他なりません。

自分がファンであり、アイドルを好きであることを表現することは、ファンがアイドルに対して持つ権利でしたが、権利を行使すればするほど名前を覚えられてしまい、承認欲求のような高次の欲求まで満たされることで、持つ必要のなかった「愛の告白の義務感」を感じるようになったのです。


総選挙という政(まつりごと)

総選挙を実際に見ているとあれはまさに戴冠式のような、一種の政のような緊張感があります。大島優子さんが中央に置いてある椅子に座る姿は、まさに「女王」の名にふさわしい貫録がありました。司会の徳光さんが何度も噛んだのが頷ける緊張感でした。


順位が呼ばれ壇上に立つメンバーは一様にファンへの感謝を述べます。つまり逆に言えば壇上に上がれないメンバーは、公の場で自分のファンに対して感謝も述べられないのです。個人的な場(たとえば握手会やブログ等)で感謝を述べることもできますが、第三者の前で感謝を述べることのほうが絶対的に価値があります。

例えば、ノーベル賞授賞式で愛する妻に長年連れ添ってくれたことへの感謝を述べる学者の姿は非常に印象的ですし、感謝を述べられた側の喜びは測り知ることが出来ないでしょう。

そのため、メンバー自身も壇上に上がって感謝を述べられることに価値を感じています。


一方、ファンにしても「愛の告白の責任」に後ろ髪を引かれる部分があり、どうしてもそれを解消したいと思っています。なぜならば責任感のない無限の愛情表現こそ、アイドル本質であるからです。

つまり、責任感を解消する方法としての総選挙です。

グループ内での序列が如実に現れるこの総選挙では、もちろんファンへの感謝を表したい願いもありますが、それ以上に自分のステータスや自尊心にかかわります。メンバーが内心、順位が欲しい、できるだけ高い順位が欲しい、と思っていることは明らかです。

そのため総選挙の期間中は、AKBメンバーからのファンへの要求が明確で、一義的(票数)です。そしてそれに応える形で、ファンは「愛の告白の義務」から解き放たれます。義務から解放されるためには権利、つまりどれだけでも愛を表現して良い権利を行使すればよいため、時にはCDを数百枚購入して投票したりするのです。

義務を権利によって遂行することが可能な場こそ、総選挙なのです。


「票数は愛である」

結果的に票は金で買えますが、金で買った票はメンバーにとっては愛なのです。この事実は過去のアイドルの歴史から見ても明らかであり、覆すのは困難です。

しかしながら、アイドルとして新しい局面に入った48グループでは、名前も顔もわかるようなファンに対して何かしらの愛を届けたいというメンバーが多数現れています。このメンバー内に生まれている新しい気持ちは、総選挙を繰り返すことで解消されるのか、はたまた違う局面に入るのか。

それはまた次のエントリーで。。。

2012年6月7日木曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part1

本日(6/6)はAKBの総選挙でした。

私はチケットが当たり武道館で見ることが出来ましたが、司会の徳光さんが途中何度も噛むぐらいに中の緊張は張りつめていました。色々な発見や驚きがありましたが、次の点が特に気になりました。

「票数は愛である」
「たくさんの愛をありがとう」


という、メンバーの発言です。

この考え方はそうは思っていたとしても、去年までは口にするものが少なかったと思います。今回のAKB総選挙では、上記の言葉を発するメンバーが多くいました。


逆に一人が何十票も財布を痛めて投票することに憂慮した発言、つまり「票数を愛である」という思想に難色を示したかのような発言をした、多田愛宮崎美穂は逆に順位を落とす結果になったことが印象的でした。




今回「票数は愛である」という思想が、なぜアイドルには需要があるのかを解き明かすヒントになりました。これから、そのことについてお話ししたいと思います。長くなるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。


「票数は愛である」という思想の始まり

「票数は愛である」という思想を決定付けたのは、何を隠そう第4回の選抜総選挙第1位の大島優子さんその人です。


彼女はブームが本格的になり始めた2011年、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という世間からの問いに、「票数は愛である」という形で答えたのでした。

この「票数は愛である」という答えに、批判を行っていた有識者やコメンテーターの方々も反論することが出来ませんでした。今回の総選挙では、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という問いは、去年に比べほとんど出なかったのではないのでしょうか?

「票数は愛である」という思想は、それほどまでに説得力があるのだと思います。


「票数は愛である」という思想の強さ

普通の選挙を考えると、「一人一票」という原則は当たり前です。選挙、つまり政治の舞台でお金を払うと、多くの票を買えるシステムがあった場合、資本家が社会制度を彼らに都合の良いものにするという弊害が簡単に想像できます。

現実の選挙では投票とは権利の行使です。つまり、「票とは人権(権利)」です。

この論理をAKB総選挙に照らし合せると、やはり間違っています。背後に基本的人権というバックボーンがある以上、平等であるべきです。

しかしながら、大島優子さんはそれに対してこう反論したのです。

「まず、定義が間違っている。票は愛である。愛の大きさは、同じではない。お前は全ての人類を平等に愛しているのか?愛していないだろう?だから、一人何票も投票するのは当然の行為である。」

という論理を展開したのです。

厳密に言えば、AKB総選挙で一人が何票も投票するシステムの問題性は、社会的良識や法概念から指摘できると思います。しかしながら労力を考えてしないのでしょう。

こうして「票数は愛である」という思想は、世間を黙らせるだけの強い論理としていまだに存在します。


「愛されるよりも 愛したい」

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Kinki Kidsのセカンドシングル「愛されるよりも 愛したい」は、男性アイドルが好きでなくても一度は耳にしたことがあると思います。この名曲「愛されるよりも 愛したい」はいったい誰の感情をうたったものなのでしょうか。

私が思うに、この曲はファンの感情を歌った曲であり、題名と曲そのものが一連の大きなマーケティングになっていたのではないでしょうか。つまり、デビュー間もないKinki Kidsは、ファンからの愛を獲得するために、ファン心理を煽ったです。

ファンは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像、つまりアイドルを求めています。そういう需要や欲望が、人間には根源的にあるのではないでしょうか。

愛の告白の責任

アイドルとは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像であると述べましたが、現実世界でそのような行動をとることは可能でしょうか?

例えば僕が女性の友人に、「愛してる」と告白したとします。次に言うべき言葉は、「付き合ってほしい」です。例えばここで、「僕は君を愛しているが、付き合う気はない」と述べることは、基本的にはできないのです。

「愛してる」という告白には責任が伴います。「愛して」いるから、一緒に生活するための生活費は稼ぐ、落ち込んでいるときには一緒に時間を過ごす、のような義務があるのです。

さらに言えば、告白して振られた場合でも、何かの拍子で頼られることがあるかもしれません。相手は、「告白されたから、私に愛情があり、当然助けてくれるに違いにない」と思う可能性があるからです。

誰彼かまわず「愛している」ということは、結婚詐欺でしかありません。それでは塩谷瞬です。




人はうかつには自分の好意を発言することは出来ません。愛を告白して責任が果たせないと、彼のように涙を流すことになるからです。


自由恋愛市場

「愛の告白の責任」だけが、アイドルの需要を生み出す要因ではありません。おそらく自由恋愛市場特有のルールも理由の一つです。

ここからの記述はあいまいで抽象度が高いものになるかもしれませんがお付き合いください。


自由恋愛市場というのは、世界の歴史の中でも短いと思います。おそらく近世以降です。それまでは親が相手を決めたり、もしくは風習で結婚相手が決まっていたかもしれません。

自由恋愛市場では、誰が誰を愛するかは自由です。つまり、「愛する自由」は権利として存在します。しかしながら一方で、「愛されない自由」も権利として存在します。望まない相手とはキスはしなくて良いのです。

「愛する自由」は一度相手から承認された場合(結婚等)、なかなか破棄されませんが、それまでは「愛されない自由」を行使されると、破棄しなければなりません。

同時に「愛する自由」が行使されるたびに、相手は「愛する自由」もしくは「愛されない自由」のどちらかの決断を迫られます。これは、「愛する自由」を選んだが最後、「愛されない自由」を選べなくなる可能性もあり、非常に重大な決断となります。

結果的には「愛する自由」は、「愛されない自由」の前に敗れ去られることが多々あるし、その手続きは非常に手間がかかり、承認されても何かしらの大きな責任を負うことになるので、なかなか執行できないし、されません。

この機能しない「愛する自由」を不完全な形で執行する相手が、アイドルという存在です。


結論

アイドルに対してのみ、なかなか執行できない「愛する自由」を、付随する責任を伴わず「告白」する部分のみ執行することを許されるのです。その場合のみ、アイドルは「愛されない自由」を行使しません。

本来ならば愛の告白の先にある、家庭を築くとか、子供を育てるとかの権利であり、また義務である部分を初めから破棄するのです。


それでは、アイドルたちは、その無責任な愛の先に何を見るのか、、、
それはまた次のエントリーで。

2012年3月5日月曜日

第一回今週のジャンプ 3月5日号

『しょ評っ書!』第一回目は、ジャンプの書評にします。
今週の週刊少年ジャンプ|集英社『週刊少年ジャンプ』公式サイト shonenjump.comより 2012/3/5

過去Twitterでジャンプの書評を毎週やっていた時期がありましたが、だんだんと面白くなくなってしまい、批判ばかりが並んで止めてしまいました。

それでも毎週ジャンプは買ってきました。ひとまず毎週とはいかなくても、大きな変化が生まれた時に書いていきたいと思います。


それでは今週は『トリコ』、『BLEACH』、『ハンター×ハンター』について。。。

今週のジャンプはまさに、新世界に突入したと言ってよいのではないでしょうか。


『トリコ』はグルメ界という新しい世界にいつ突入するのかドキドキわくわくする展開でしたが、着実にトリコが成長しそろそろ人間界最強のレベル100の猛獣を倒して突入するでしょう。正直読みきりの頃は『タケシ』の印象が強く、猛獣が恐ろしかったのですが、今はどれも可愛くなりました。案外、読者の猛獣を採用するのが良かったのかもしれません。

そして、『BLEACH』です。新しい敵が現れました。まだ全くヒントのようなものがありませんが、おそらく虚を殺しても浄化出来ないクインシーと似たような特性を持つ敵であることが予想されます。そして、この新章でおそらく『BLEACH』は終了するのではないのでしょうか。愛染編で出てきた王鍵と0番隊に示唆された王族の存在が、いよいよ明らかになると思います。

最後に今週一番驚いたのは『ハンター×ハンター』です。「えっ!?そんな新設定いきなり作るの?」という急展開に誰しもが驚いたと思います。反対に、強さのインフレがひと段落したことにホッとした人もいると思います。

当初、キメラアントの出現があまりに突然であったことと、女王蟻に人間の血が入っているかもしれないという状況から、秘密結社的なものの生物兵器としてキメラアントがいて、それを実はジンが追っていて再会という筋書きを考えていました。

しかしながら、「ジンに会う」という当初の目的があっさり達成されてしまったため、新たな目標を作る必要はあったと思います。それでも流星街と旅団みたいな面白い設定を捨てるのは、非常に残念です。

富樫先生は過去に同じような手法を使ったことを、ちょっと昔から漫画を読んでる人は覚えていると思います。まさに『幽☆遊☆白書』の魔界編は、今回とほとんど同じ展開です。「友人や師と別れて、父の導きによって新しい世界へと旅立つ」という構図の踏襲です。

正直、僕の周りでは『幽☆遊☆白書』魔界編の評価は賛否が分かれます。それでも『幽☆遊☆白書』のような暗い雰囲気がない新章突入に、もっと子供向けの明るい展開を希望します。


このように今のジャンプの看板作品ともいえる作品群が、『ワンピース』も含めていっせいに新章に突入し始めたのは、やはり編集部のテコ入れがあったのではないかと勘繰らずにはいられません。何か編集部に危機感があったのではないでしょうか?

同じ時期に新章に突入するための調整に、あのよく分からない『BLEACH』の展開もあったんだと説明することが出来ます。


最後に、、、
今週のジャンプは読み続けている人にとっては非常に面白い号でした。

不幸の発見

FREEex代表の岡田斗司夫さんの言動は楽しい。


マンガ夜話で初めて知るようになったのだが、当時は正直太っていました。今はだいぶスリムになられて、「いつまでもデブと思うなよ」はベストセラーにもなっています。


特に強く意識するようになったのは、 FREEex の前身であるオタキングexを始めたころです。言動の面白さはもちろん、その目指すところが面白い。


「全世界の0.3%の人の苦しみを排除する」


幸せにするのではなく、苦しみの排除であることがキーポイントだそうです。(興味を持たれた方は、この動画群を見てください。)


でも、よく聞くと言動の内容には疑問符の付くところが多いです。論理としての飛躍や破たんは日常茶飯事。それでも彼の言動が魅力的なのは、苦しみよりも幸福の方にベクトルが向かっているからです。


人を幸せにする言葉は、
不幸にする正しい言葉よりも力がある。


学者や研究者は、時に人を不幸にする発見をしてしまいがちです。人間が愚かであることは人間の歴史を振り返るとわかり、キリスト教を信じる人にとって進化論も天動説もまさに外道であったと思います。ゲーム理論ももしかしたらその類になるかもしれません。


人を不幸にする発見を、「不幸の発見」と簡単にこのブログでは名付けたいと思います。


それでは不幸の発見をしたものは、それを黙っていればよいのでしょうか?果たしてそれは可能なのでしょうか?告白欲よりも、倫理を優先できるのでしょうか?核爆弾の理論を考えた人は、それを黙っておくことが出来たのでしょうか?
おそらく一般的な答えは、「ノー」です


人間は、それほど強くない。強い時もあるが、強くない時もある。


そして、僕もそうです。
僕も強い人間ではありません。新しい考えは、時にそれが不幸の発見であっても世に発信したい。


是非、僕の愚行を鼻で笑って欲しいと思います




PS:これは書き直しです。ですます調だったことを忘れてました。あと改行を直そうと思いましたが、うまく行きませんでした。

はじめまして。

こんにちは。。。
KoR89こと、明治大学経営学部経営学科 畠山薫です。

これまではTwitterを中心に好きなこと喋ってきましたが、まとまったことをしゃべろうと思うと、TLをむやみに占拠してしまったりするのではないかと思い、今回ブログを始めたいと思います。

ちなみに『自尊博愛』とは、僕と妹が作った造語です。意味は読んだ通りです。自由に解釈してください。


ひとまず次のようなことを中心に喋っていきたいと思います。

Ⅰ:『卒論読んで!!』
ただ今3年生で、4月から4年生になります。ボクの中では卒論は非常に大きなウエイトを占めます。少し古臭い考えですが、大学4年間の集大成はやはり卒論だと思うのです。それを多くの方に読んでもらいたい。そのためのマーケティングを始めたいと思います。

Ⅱ:『やっぱりこれっておかしくネ!?』
世の中には不思議なことが多々あります。例えば、傍目ではもう関係が終わっていそうな親子が同じ屋根の下で暮らしていたり、なぜか空気読めないような人がグループの中心にいたり、と僕にとっては多くの謎があります。それについて考えたことをつらつら書いていきたいと思います。

Ⅲ:『左側より、右側でしょ。』
1年ほど前にFXを始め、精神的疲労と急激な体重減少で止めてしまいましたが。最近、やっぱりやりたくなってきました。なので資金がたまり次第、また始めたいと思います。始める準備ができ次第始めたいと思います。

Ⅳ:『しょ評っ書!!』
本をたくさん読むわけではありませんが、読んだ本で考えたことや感じたことについて、読んでいきたいと思います。堅苦しい本ばかりではなくて、マンガとか時には週刊誌なんかも書いていきたいと思います。た


ひとまず以上のことを中心にブログを書いていきたいと思います。題材が増えたら、その都度増やしていきたいと思っています。


最後に目標を、、、
ネット社会が浸透し始めて僕は思うようになりました、「Googleで”畠山”を検索したら候補欄に”畠山 薫”と出るようになったらきっと飯には困らないだろう。」と。「KoR89=畠山薫」になったら、なんかイイなと。ここを僕の発信の中心したいと思います。