2012年6月27日水曜日

【AKB48】恋愛禁止条例〜指原事件より〜

前回のエントリーが尻切れとんぼのようになってしまいましたが、考えがまとまりませんでした。「票は愛である」思想がAKBメンバーに与える影響については、また改めてエントリーをしようと思います。


6月初めに総選挙があってひとまずAKBブームも落ち着いたかなというところで、元AKB48チームA指原さんの過去の恋愛が、信憑性が高い写真とともに掲載されました。あまりのタイミングの良さに、少し勘ぐりたくなるところではありますが。

写真の真偽は2chでも話題となり、2chの検証結果はかなり信憑性が高いものになっているのではないのでしょうか。


2chの調査能力の高さに、改めて驚いてしまいました。こういうのが集合知なんじゃないかと、経営学を学ぶ私としては興味深いものがありました。


恋愛禁止条例

さて前回前々回のエントリーで、アイドルを「いくらでも愛して良い偶像」と定義しましたが、なぜそれが恋愛禁止条例につながるのかを考えたいと思います。

前回も図で示したとおり、アイドルはファンに対して愛を返さないというのが原則でした。(AKBでは「愛を返すこと」がテーマだとは思いますが。)なぜなら、返される愛には、「愛の告白の責任」が発生してしまうからです。
ファンが「愛の告白の責任」を感じずに愛を表現し続けていたある日、アイドルから個別的に私信があったとしてます。もちろん第三者にはバレないようにです。このように愛が返された場合、純粋なファンでいたいと思うのならば、私信を無視すれば良いハズです。

アイドルがファンに私信をした時点で、ファンには私信に返事をするか、無視するかという「愛する自由」と「愛されない自由」の選択肢が出現します。この瞬間から「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」から逃れてきたファンは、現実世界にまた引き戻されることになります。

もちろん「愛する自由」を行使したら最後、彼女がアイドルであるという「責任」を引き受けることになります。そのプレッシャーは、「愛の告白の責任」をより明確に感じさせるのではないでしょうか。

つまり、恋愛をしたアイドルは、

アイドルからただの女の子になってしまうのです。





ディスコミュニケーション

まず恋愛をした瞬間からアイドルとしての価値を著しく損なうことを説明しましが、付き合っている人の前では「女の子」でも、その他のファンの前では「アイドル」なのだから変わらないハズです。しかしながら、恋愛禁止条例は確かに存在します。


つまり、特定の関係が他のファンに影響を与えるという倫理観や道徳観が、ファンの中で共有されているということです。


まずアイドルとファンの関係とは、ディスコミュニケーションによって成立しています。「いくらでも愛していい偶像」には、コミュニケーションが取れない存在だという前提があります。


アイドルが感情を表現する存在だとしたら、コミュニケーションには正解があります。「Why?」と質問されて、「Yes, I do.」とは答えることは出来ないのと同様に、一定の答えがあるはずです。


例えば、秋元康さんは指原さんと過去のアイドルを比べた時、トップアイドルはあんまり喋らないことを強調していましたが、それもディスコミュニケーションの一例なのではないのでしょうか。


しかしながらアイドルが誰かと恋愛関係にあるということは、アイドルとのコミュニケーションには正解があったということです。特に、相手がファンをはじめとする一般人の場合はなおさらです。

一方で他のファンにとっては、これまでの愛情表現が不正解であったことが明らかになり、それ以降もファンであるということは、常に最善のコミュニケーションを取らないという決断をすることと同義です。

このディスコミュニケーションと不正解の現実に、ファンは耐えられないのです。


アイドルは恋愛をするという歴史的にも明らかな現実を直視しないファンの姿は不思議ですが、目の前に横たわっている「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」の方がはるかにリアルに感じられ、それらからの逃避を優先しているのではないでしょうか。


アイドルの”処女性”

私は「恋愛禁止条例」の付随する”処女性”は、アイドルの本質ではないと思っています。


私の知るかぎりでも、モーニング娘。の保田圭中澤裕子など、現役当時でも”処女性”からかけ離れたアイドルがいました。その一群は例外で括れないほど多く、また存在感があると思います。




また”処女性”を乗り越えて女優やタレントになったアイドルも同じように多く見られます。”処女性”だけをウリにして生きていくには、限界があるからです。


それでもアイドルの”処女性”に信仰があるのは、それが恋愛禁止条例が守られているという担保になるからです。




以上のように、恋愛禁止条例について考察してきましたが、恋愛禁止条例には実は裏ルールがあるのではないのかというのが、私の予想です。というか、こっちが本題です(笑)

それでは、また次のエントリーで。。。

2012年6月9日土曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part2


最近在宅オタを卒業した私は、実際に劇場に行ったりライブに行くと本当に

「愛してる」
「超絶可愛い」

などの、日常では絶対に使わない言葉を叫んでいるファンの方に驚いてしまいます。

ちなみにオタク特有だと思われている「萌え~」のような言葉を発する人はいません。アレは人間を褒める言葉ではなく、基本的にはアニメやマンガに対しての褒め言葉のようですね。


アレを見ると思い出すのは歌舞伎です。
高校生の文化鑑賞で歌舞伎をわざわざ横浜から東京まで行ったのを思い出します。基本的にAKBも歌舞伎も、劇場を持っているあたりが似ていますね。

そこでも、「中村屋~」など叫んでを、座席の一番後ろで観客をリードする人がいました。


前エントリーの振り返り


さて前回のエントリーで、

アイドルとは、いくらでも愛していい偶像である

と定義しました。

発想は、大島優子さんの「票数は愛である」発言でした。いくらでも愛していいという需要の背景に、「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」などの要因を挙げてみました。

それでは、そのうえで「票数は愛である」という思想はどのような影響を、48メンバーやファンに影響を与えているのかを考察してみたいと思います。


「愛=金」という図式

他のエントリーで、AKB総選挙には正義があるのかという、ハーバード白熱教室のサンデル教授並みのアツさでペンを握られている方も多くいました。その中では、票が金で買えること、その票を愛とAKBメンバーが呼ぶことに対する嫌悪感を示されていました。

これは、まさしくサンデル教授の言うところの功利主義です。全ての事柄(愛や好意を含めた)を一つの基準によって測ることが可能なのかという問いです。

白熱教室では、サンデル教授は以下のように言っています。


つまり、「人が重んじていることや、大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであり、ミミズであれ、一律の価値基準にあてはめることができない」ということだ。  もし後者(一律の価値基準にあてはめることができない)が正しいとすれば、功利主義の道徳原理は崩れてしまうことになる。(出典:ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業[上]P.74)
逆に言えば、一律の価値基準にあてはめることを正当化できる倫理や論理があるのならば、愛を金を測ることが可能であるということです。そして、それは日常生活の範囲である必要ではなく、アイドルとファンという限定された空間で有効性を持てば良いのでしょう。

私の定義では、「アイドルとは、いくらでも愛していい偶像」であるため、与えられるものは例えお金であっても、愛と呼ぶことには彼女たちの存在意義に合致します。これこそがアイドルの功利主義を肯定する唯一の倫理観なのではないのでしょうか。


アイドルとファンの愛の形

一般的に他人に愛を告げると以下のようになります。


このように一方に愛を告白した場合、もう一方それを受け入れるか拒否するかのどちらかを選ぶ必要があります。決断を保留することは、自由恋愛市場不全を引き起こすため許されません。

左側のように愛の告白が受け入れられた場合、形式上お互いに好意を持っていることになります。好意を持つとお互いに相手の行動を制限し合うことになりあます。これが前のエントリーで示したところの「愛の告白の責任」です。

一方右側のように断られてしまった場合、好意を持ち続けても良いですが、基本的にはそれを日常生活では表に出さないように努めると思います。結果的に自分の好意を、表現することさえ暗に禁じられてしまいます。

結果的には、受け入れられても断られても、愛の告白が引き起こす閉塞感や束縛感をどうしても拭うことができないのです。これが「自由恋愛市場」において引き起こされる出来事でした。


アイドルの場合では、以下のようになります。


非常にシンプルです。

アイドルは一般的にはファンからの愛の告白を拒否することはできません。一方、ファンは直接的にかつ恣意的にアイドルから好意を示されることはありません。これこそAKBのいうところの「恋愛禁止条例」にあたります。原理的に言えば、アイドルには彼氏はおらず、恋愛もしてはいけないからこそ、全ての人から愛を受け入れることが可能になっているのです。

このようにファンは何も与えられない代わりに、「自由恋愛市場」と「愛の告白の責任」から解放され、自分の好意を無制限に表現することが可能になり、アイドルは、「どれだけ愛してもいい偶像」として存在します。

48グループというアイドル

上記のような形がいわゆるアイドルの雛形でした。しかしながら、その雛形の枠からはみ出した存在こそが48グループというアイドルです。枠からはみ出した大きな要因が「会いにいけるアイドル」というコンセプトです。

「会いにいけるアイドル」とは具体的には、「劇場に行けば会える」、「握手会で握手しながら話せる」、「写メ会でツーショット写真が撮れる」、そして案外重要なのはインターネット上の「ブログで一日の行動を知れる」や「SNSでコミュニケーションがとれる」といったものです。他にも、メールを送ってくれるサービスもあるそうです。

このようにAKBは自分の日常を切り売りして、仕事ではなくアイドルという人種として生活しています。これはプロテスタンティズムが「世界の魔術からの解放」を行ったとに、多少ながら似ていると思います。

しかし、「会いにいけるアイドル」というコンセプトは、アイドルとファンの間に別の作用を及ぼしました。それは、アイドルによる特定のファンに対する認知が高まったことです。足しげく何度もメンバーに会いに行くと、自然と名前と顔が一致してくるようになったのです。

そして、ファンはアイドルから認知されるようになって、忘れたはずのある感情を思いだしたのです。


それこそ

「愛の告白の責任」

です。

自分が「ファンです!応援しています!」と言っても、相手が本当に喜んでくれているのか分からののです。形式的には、「嬉しいです!ありがとうございます!」と答えてくれても、それが建前でないという保証はどこにもありません。かといって付き合ってくださいと申し出ることは、アイドルとファンという関係の終焉を表します。そのようなジレンマに気が付いたのはアイドルとファンの間に、個々の特別な関係(顔と名前が一致するような環境)が生まれたのが原因に他なりません。

自分がファンであり、アイドルを好きであることを表現することは、ファンがアイドルに対して持つ権利でしたが、権利を行使すればするほど名前を覚えられてしまい、承認欲求のような高次の欲求まで満たされることで、持つ必要のなかった「愛の告白の義務感」を感じるようになったのです。


総選挙という政(まつりごと)

総選挙を実際に見ているとあれはまさに戴冠式のような、一種の政のような緊張感があります。大島優子さんが中央に置いてある椅子に座る姿は、まさに「女王」の名にふさわしい貫録がありました。司会の徳光さんが何度も噛んだのが頷ける緊張感でした。


順位が呼ばれ壇上に立つメンバーは一様にファンへの感謝を述べます。つまり逆に言えば壇上に上がれないメンバーは、公の場で自分のファンに対して感謝も述べられないのです。個人的な場(たとえば握手会やブログ等)で感謝を述べることもできますが、第三者の前で感謝を述べることのほうが絶対的に価値があります。

例えば、ノーベル賞授賞式で愛する妻に長年連れ添ってくれたことへの感謝を述べる学者の姿は非常に印象的ですし、感謝を述べられた側の喜びは測り知ることが出来ないでしょう。

そのため、メンバー自身も壇上に上がって感謝を述べられることに価値を感じています。


一方、ファンにしても「愛の告白の責任」に後ろ髪を引かれる部分があり、どうしてもそれを解消したいと思っています。なぜならば責任感のない無限の愛情表現こそ、アイドル本質であるからです。

つまり、責任感を解消する方法としての総選挙です。

グループ内での序列が如実に現れるこの総選挙では、もちろんファンへの感謝を表したい願いもありますが、それ以上に自分のステータスや自尊心にかかわります。メンバーが内心、順位が欲しい、できるだけ高い順位が欲しい、と思っていることは明らかです。

そのため総選挙の期間中は、AKBメンバーからのファンへの要求が明確で、一義的(票数)です。そしてそれに応える形で、ファンは「愛の告白の義務」から解き放たれます。義務から解放されるためには権利、つまりどれだけでも愛を表現して良い権利を行使すればよいため、時にはCDを数百枚購入して投票したりするのです。

義務を権利によって遂行することが可能な場こそ、総選挙なのです。


「票数は愛である」

結果的に票は金で買えますが、金で買った票はメンバーにとっては愛なのです。この事実は過去のアイドルの歴史から見ても明らかであり、覆すのは困難です。

しかしながら、アイドルとして新しい局面に入った48グループでは、名前も顔もわかるようなファンに対して何かしらの愛を届けたいというメンバーが多数現れています。このメンバー内に生まれている新しい気持ちは、総選挙を繰り返すことで解消されるのか、はたまた違う局面に入るのか。

それはまた次のエントリーで。。。

2012年6月7日木曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part1

本日(6/6)はAKBの総選挙でした。

私はチケットが当たり武道館で見ることが出来ましたが、司会の徳光さんが途中何度も噛むぐらいに中の緊張は張りつめていました。色々な発見や驚きがありましたが、次の点が特に気になりました。

「票数は愛である」
「たくさんの愛をありがとう」


という、メンバーの発言です。

この考え方はそうは思っていたとしても、去年までは口にするものが少なかったと思います。今回のAKB総選挙では、上記の言葉を発するメンバーが多くいました。


逆に一人が何十票も財布を痛めて投票することに憂慮した発言、つまり「票数を愛である」という思想に難色を示したかのような発言をした、多田愛宮崎美穂は逆に順位を落とす結果になったことが印象的でした。




今回「票数は愛である」という思想が、なぜアイドルには需要があるのかを解き明かすヒントになりました。これから、そのことについてお話ししたいと思います。長くなるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。


「票数は愛である」という思想の始まり

「票数は愛である」という思想を決定付けたのは、何を隠そう第4回の選抜総選挙第1位の大島優子さんその人です。


彼女はブームが本格的になり始めた2011年、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という世間からの問いに、「票数は愛である」という形で答えたのでした。

この「票数は愛である」という答えに、批判を行っていた有識者やコメンテーターの方々も反論することが出来ませんでした。今回の総選挙では、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という問いは、去年に比べほとんど出なかったのではないのでしょうか?

「票数は愛である」という思想は、それほどまでに説得力があるのだと思います。


「票数は愛である」という思想の強さ

普通の選挙を考えると、「一人一票」という原則は当たり前です。選挙、つまり政治の舞台でお金を払うと、多くの票を買えるシステムがあった場合、資本家が社会制度を彼らに都合の良いものにするという弊害が簡単に想像できます。

現実の選挙では投票とは権利の行使です。つまり、「票とは人権(権利)」です。

この論理をAKB総選挙に照らし合せると、やはり間違っています。背後に基本的人権というバックボーンがある以上、平等であるべきです。

しかしながら、大島優子さんはそれに対してこう反論したのです。

「まず、定義が間違っている。票は愛である。愛の大きさは、同じではない。お前は全ての人類を平等に愛しているのか?愛していないだろう?だから、一人何票も投票するのは当然の行為である。」

という論理を展開したのです。

厳密に言えば、AKB総選挙で一人が何票も投票するシステムの問題性は、社会的良識や法概念から指摘できると思います。しかしながら労力を考えてしないのでしょう。

こうして「票数は愛である」という思想は、世間を黙らせるだけの強い論理としていまだに存在します。


「愛されるよりも 愛したい」

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Kinki Kidsのセカンドシングル「愛されるよりも 愛したい」は、男性アイドルが好きでなくても一度は耳にしたことがあると思います。この名曲「愛されるよりも 愛したい」はいったい誰の感情をうたったものなのでしょうか。

私が思うに、この曲はファンの感情を歌った曲であり、題名と曲そのものが一連の大きなマーケティングになっていたのではないでしょうか。つまり、デビュー間もないKinki Kidsは、ファンからの愛を獲得するために、ファン心理を煽ったです。

ファンは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像、つまりアイドルを求めています。そういう需要や欲望が、人間には根源的にあるのではないでしょうか。

愛の告白の責任

アイドルとは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像であると述べましたが、現実世界でそのような行動をとることは可能でしょうか?

例えば僕が女性の友人に、「愛してる」と告白したとします。次に言うべき言葉は、「付き合ってほしい」です。例えばここで、「僕は君を愛しているが、付き合う気はない」と述べることは、基本的にはできないのです。

「愛してる」という告白には責任が伴います。「愛して」いるから、一緒に生活するための生活費は稼ぐ、落ち込んでいるときには一緒に時間を過ごす、のような義務があるのです。

さらに言えば、告白して振られた場合でも、何かの拍子で頼られることがあるかもしれません。相手は、「告白されたから、私に愛情があり、当然助けてくれるに違いにない」と思う可能性があるからです。

誰彼かまわず「愛している」ということは、結婚詐欺でしかありません。それでは塩谷瞬です。




人はうかつには自分の好意を発言することは出来ません。愛を告白して責任が果たせないと、彼のように涙を流すことになるからです。


自由恋愛市場

「愛の告白の責任」だけが、アイドルの需要を生み出す要因ではありません。おそらく自由恋愛市場特有のルールも理由の一つです。

ここからの記述はあいまいで抽象度が高いものになるかもしれませんがお付き合いください。


自由恋愛市場というのは、世界の歴史の中でも短いと思います。おそらく近世以降です。それまでは親が相手を決めたり、もしくは風習で結婚相手が決まっていたかもしれません。

自由恋愛市場では、誰が誰を愛するかは自由です。つまり、「愛する自由」は権利として存在します。しかしながら一方で、「愛されない自由」も権利として存在します。望まない相手とはキスはしなくて良いのです。

「愛する自由」は一度相手から承認された場合(結婚等)、なかなか破棄されませんが、それまでは「愛されない自由」を行使されると、破棄しなければなりません。

同時に「愛する自由」が行使されるたびに、相手は「愛する自由」もしくは「愛されない自由」のどちらかの決断を迫られます。これは、「愛する自由」を選んだが最後、「愛されない自由」を選べなくなる可能性もあり、非常に重大な決断となります。

結果的には「愛する自由」は、「愛されない自由」の前に敗れ去られることが多々あるし、その手続きは非常に手間がかかり、承認されても何かしらの大きな責任を負うことになるので、なかなか執行できないし、されません。

この機能しない「愛する自由」を不完全な形で執行する相手が、アイドルという存在です。


結論

アイドルに対してのみ、なかなか執行できない「愛する自由」を、付随する責任を伴わず「告白」する部分のみ執行することを許されるのです。その場合のみ、アイドルは「愛されない自由」を行使しません。

本来ならば愛の告白の先にある、家庭を築くとか、子供を育てるとかの権利であり、また義務である部分を初めから破棄するのです。


それでは、アイドルたちは、その無責任な愛の先に何を見るのか、、、
それはまた次のエントリーで。