2013年1月18日金曜日

エヴァンゲリオンQ ~気持ち悪さと救い~


卒論でなんとなく時期を逃してしまいましたが、僕がエヴァンゲリオンQを見て何を感じたかについて、簡単にですが書きたいと思います。


劇場版エヴァンゲリオンQ

~気持ち悪さと救い~


基本的な感想

僕の基本的な感想は、前半というか終わりの直前まではずっと気持ち悪いと思い、そしてなぜか最後に救われてしまったわけです。

ヒントは、羽海野さんのQに対する感想に隠されていると思います。


つまり「ずっと一緒に」や「気づいたらこんな遠くまで来てしまった」といった感想が、私が最後に救われた理由でした。

「気持ち悪い」

僕がかなり終盤まで感じていたのは、「気持ち悪い」(アスカ的に言っている体でw)といった感想でした。その気持ち悪さを、端的に表すと、

同性のオナニーを何時間も見ている感覚

です。

つまり、庵野秀明監督のオナニーを、映画館で300人くらいの観客と一緒にずっと見ているような感覚でした。同性のオナニーを見ることさえ気持ち悪いのに、それを300人のファンがこぞって見に行っている感じが、更に気持ち悪さを助長させて行きました。

庵野さんの内的葛藤の中でも、作品に対する葛藤や「僕ってなんてダメな人間なんだろう」、「弱い僕に頼らないといけない世間が悪い」といった、本来人に見せるべきではない恥ずかしい感情を、作品の大半において碇シンジの内的葛藤を描くことによって投影している感覚を受けざる得ませんでした。

カヲルくんというファン

僕は薫(カオル)ですが、最初にカヲルくんが出てきたことが嬉しかったのを覚えていますw

カヲルくんは、常にシンジを肯定し続けます。「そのままでいいんだよ」「君らしく」といった言葉で、彼の目的にシンジを巻き込んでいくわけです。

実際には、シンジはカヲルくんに肯定されることによって、救われます。シンジはカヲルくんがいなければ、ただの本当のダメ人間になってしまい、何もしないことになってしまうのです(行動の良し悪しは別として)。

その悩みさえも肯定するカヲルくんの姿を見ていると、なんとなくそれがファンであるのではないか錯覚します。つまり、碇シンジ=庵野秀明、カヲル=ファンといった構図です。庵野さんを肯定し続けるファンがあそこには投影されている気がしてならないのです。

実際、カヲルくんは人間ではなく、使徒です。つまり、本質的には敵だったハズです。TVシリーズでは、最後はシンジによって殺されてしまいました。しかしながら、Qではむしろシンジをかばって死んで行きました。

つまり、TVシリーズではプレッシャーを与えるだけの敵であったハズのファンが、長い葛藤を経験している彼を肯定し続けることによって、ついには本質的には敵でありながら味方であるかのように庵野さんの中で感じるようになったのではないのでしょうか。

そして、そのように庵野さんを甘やかしてた姿をなんとなく見せられているようで、二重の気持ち悪さがありました。

エヴァとファンの人生

エヴァンゲリオンは未完の作品です(意見の別れるところだと思いますが)。未完でなければ、劇場版など作らないと思うからです。エヴァンゲリオンは未完でありながら、ファンに影響を与え、アニメ史に三千と輝く名作として歴史に名を残すことになりました。

そういった作品であるエヴァンゲリオンには、おそらく30代ぐらいのコアなファンがいます。エヴァンゲリオンによって人生が狂ってしまった人たちです。

未完のようなモヤモヤした感覚を、エヴァンゲリオンの本当の完結をもって昇華するのを彼らは待っています。しかもそれを10年単位で待っているのです。そのような感覚が、羽海野さんの「気づいたらこんな遠くまできてしまった」といった感想につながるのだと思っています。

Qという作品の役割


新劇場版の序と破は、けっして完全に新しいストーリーではありませんでした。前作を焼き直しして、昇華させたような作品です。それは庵野さんがあそこまでは納得がいっていたからです。Qから、本格的にストーリーが展開されていくのです。

Qという作品は、まさにファンとエヴァと庵野さんの10年が表現されているように思います。なぜQが14年後からスタートしたのか、1998年の『Air/まごころを、君に』から2012年がちょうど14年たったからです。

そうしないとすでにお互いに納得出来ない大きな隔たり、つまり成長や変化を我々は体験してしまっているからです。つまり、我々(ファンと庵野さん)さんには、この10年を振り返る必要があったのです。

そうしないと本当の完結に説得力がもたせられないのです。

僕が救われた理由


そのように振り返りを経て、新しく出来あがる作品はどのような作品であるべきでしょうか。僕たちはまた庵野さんのオナニーを見なければならないのでしょうか?

やはりそれは違うのだと思います。僕たちは決してエヴァを通して庵野さんの人生を見ているのではありません。僕たちはシンジや綾波レイやアスカの物語を見ているのです。庵野さんに感情移入しているのではなく、彼らに感情移入しているのです。

シンジがカヲルくんとずっといたというのは、ファンとエヴァがずっと一緒に煮え切らない感情のまま一緒に居続けたことの比喩なのです。心地よいものであっても、それがどうやっても完結しないのは当たり前です。

カヲルくんが死んで、シンジがレイと一緒にアスカやミサトさんのもとに戻ろうと荒野を歩いていたのは、まさにそのような膠着状態から一歩進みエヴァの完結に向けて進んでいることの象徴です。(僕が思うに「人類補完計画」は『エヴァンゲリオン』という大作への比喩です。)

一度は分裂した彼らが、最後一緒になって歩いていく姿に希望を感じ、僕は最後救われました。

おわりに

途中までの『気持ち悪さ』を超えて、救われた僕の感想は『次もまた見に行こう』でした。正直、30代の人達に比べると僕はそこまで影響を受けたわけではありませんが、それでも普通のアニメよりも感情移入しています。

僕もまた完結を望んでいる一人です。

最後に、僕は葛城さんが好きなのですが、小学生の時にそういう友だちがいなかったのは悲しかったでした。また、なぜか名前が似てるだけで、カヲルくんと比べられてイケメンじゃないと言われるのも悲しかったでしたw