2012年6月7日木曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part1

本日(6/6)はAKBの総選挙でした。

私はチケットが当たり武道館で見ることが出来ましたが、司会の徳光さんが途中何度も噛むぐらいに中の緊張は張りつめていました。色々な発見や驚きがありましたが、次の点が特に気になりました。

「票数は愛である」
「たくさんの愛をありがとう」


という、メンバーの発言です。

この考え方はそうは思っていたとしても、去年までは口にするものが少なかったと思います。今回のAKB総選挙では、上記の言葉を発するメンバーが多くいました。


逆に一人が何十票も財布を痛めて投票することに憂慮した発言、つまり「票数を愛である」という思想に難色を示したかのような発言をした、多田愛宮崎美穂は逆に順位を落とす結果になったことが印象的でした。




今回「票数は愛である」という思想が、なぜアイドルには需要があるのかを解き明かすヒントになりました。これから、そのことについてお話ししたいと思います。長くなるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。


「票数は愛である」という思想の始まり

「票数は愛である」という思想を決定付けたのは、何を隠そう第4回の選抜総選挙第1位の大島優子さんその人です。


彼女はブームが本格的になり始めた2011年、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という世間からの問いに、「票数は愛である」という形で答えたのでした。

この「票数は愛である」という答えに、批判を行っていた有識者やコメンテーターの方々も反論することが出来ませんでした。今回の総選挙では、「一人が何十票も投票できる、AKB総選挙は正しいのか?」という問いは、去年に比べほとんど出なかったのではないのでしょうか?

「票数は愛である」という思想は、それほどまでに説得力があるのだと思います。


「票数は愛である」という思想の強さ

普通の選挙を考えると、「一人一票」という原則は当たり前です。選挙、つまり政治の舞台でお金を払うと、多くの票を買えるシステムがあった場合、資本家が社会制度を彼らに都合の良いものにするという弊害が簡単に想像できます。

現実の選挙では投票とは権利の行使です。つまり、「票とは人権(権利)」です。

この論理をAKB総選挙に照らし合せると、やはり間違っています。背後に基本的人権というバックボーンがある以上、平等であるべきです。

しかしながら、大島優子さんはそれに対してこう反論したのです。

「まず、定義が間違っている。票は愛である。愛の大きさは、同じではない。お前は全ての人類を平等に愛しているのか?愛していないだろう?だから、一人何票も投票するのは当然の行為である。」

という論理を展開したのです。

厳密に言えば、AKB総選挙で一人が何票も投票するシステムの問題性は、社会的良識や法概念から指摘できると思います。しかしながら労力を考えてしないのでしょう。

こうして「票数は愛である」という思想は、世間を黙らせるだけの強い論理としていまだに存在します。


「愛されるよりも 愛したい」

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Kinki Kidsのセカンドシングル「愛されるよりも 愛したい」は、男性アイドルが好きでなくても一度は耳にしたことがあると思います。この名曲「愛されるよりも 愛したい」はいったい誰の感情をうたったものなのでしょうか。

私が思うに、この曲はファンの感情を歌った曲であり、題名と曲そのものが一連の大きなマーケティングになっていたのではないでしょうか。つまり、デビュー間もないKinki Kidsは、ファンからの愛を獲得するために、ファン心理を煽ったです。

ファンは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像、つまりアイドルを求めています。そういう需要や欲望が、人間には根源的にあるのではないでしょうか。

愛の告白の責任

アイドルとは、「むやみやたらに愛してもいい」偶像であると述べましたが、現実世界でそのような行動をとることは可能でしょうか?

例えば僕が女性の友人に、「愛してる」と告白したとします。次に言うべき言葉は、「付き合ってほしい」です。例えばここで、「僕は君を愛しているが、付き合う気はない」と述べることは、基本的にはできないのです。

「愛してる」という告白には責任が伴います。「愛して」いるから、一緒に生活するための生活費は稼ぐ、落ち込んでいるときには一緒に時間を過ごす、のような義務があるのです。

さらに言えば、告白して振られた場合でも、何かの拍子で頼られることがあるかもしれません。相手は、「告白されたから、私に愛情があり、当然助けてくれるに違いにない」と思う可能性があるからです。

誰彼かまわず「愛している」ということは、結婚詐欺でしかありません。それでは塩谷瞬です。




人はうかつには自分の好意を発言することは出来ません。愛を告白して責任が果たせないと、彼のように涙を流すことになるからです。


自由恋愛市場

「愛の告白の責任」だけが、アイドルの需要を生み出す要因ではありません。おそらく自由恋愛市場特有のルールも理由の一つです。

ここからの記述はあいまいで抽象度が高いものになるかもしれませんがお付き合いください。


自由恋愛市場というのは、世界の歴史の中でも短いと思います。おそらく近世以降です。それまでは親が相手を決めたり、もしくは風習で結婚相手が決まっていたかもしれません。

自由恋愛市場では、誰が誰を愛するかは自由です。つまり、「愛する自由」は権利として存在します。しかしながら一方で、「愛されない自由」も権利として存在します。望まない相手とはキスはしなくて良いのです。

「愛する自由」は一度相手から承認された場合(結婚等)、なかなか破棄されませんが、それまでは「愛されない自由」を行使されると、破棄しなければなりません。

同時に「愛する自由」が行使されるたびに、相手は「愛する自由」もしくは「愛されない自由」のどちらかの決断を迫られます。これは、「愛する自由」を選んだが最後、「愛されない自由」を選べなくなる可能性もあり、非常に重大な決断となります。

結果的には「愛する自由」は、「愛されない自由」の前に敗れ去られることが多々あるし、その手続きは非常に手間がかかり、承認されても何かしらの大きな責任を負うことになるので、なかなか執行できないし、されません。

この機能しない「愛する自由」を不完全な形で執行する相手が、アイドルという存在です。


結論

アイドルに対してのみ、なかなか執行できない「愛する自由」を、付随する責任を伴わず「告白」する部分のみ執行することを許されるのです。その場合のみ、アイドルは「愛されない自由」を行使しません。

本来ならば愛の告白の先にある、家庭を築くとか、子供を育てるとかの権利であり、また義務である部分を初めから破棄するのです。


それでは、アイドルたちは、その無責任な愛の先に何を見るのか、、、
それはまた次のエントリーで。

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