2013年2月21日木曜日

進捗管理でアメとムチ

ちょっとバイト先についてまとまったものを書こうと思います。まぁ、バイト先の名前はどこにも書いていないので、おそらく大丈夫だと思います。

仕事の概要

今のバイトには、最初テレアポ(電話営業)の仕事で入社しましたが、面接の際から企業を大きくする時に生ずるオペレーションの組織化の一部を任せて頂けるというお話でした。

約一ヶ月のテレアポ期間を経て、まずアルバイトのテレアポの改善、架電数の報告システムの構築、マニュアルの作成、評価システムの作成等々というお仕事を任せて頂きました。それらについて概ね満足いただけているようで、最近では主に新卒者の進捗管理を効率化する方法について考えています。

社長の経営感覚

アルバイトのボクから言うのものなんですが、弊社代表の経営感覚は非常に優れたものがあると思います。中小企業を少し舐めていましたが、社長をする人たちには何かしらの卓越した感覚があると思います。例えば、営業がすごい社長、仕事の早い社長、開発力のすごい社長などそれぞれ特徴があると思いますが、弊社代表のそれはまさしく経営感覚に近いと思います。

ボクの言う経営感覚とは、簡単に言うと人を動かす力のことです。彼によって発生する組織力のことであるとも言えるでしょう。その力はマーケティング力とか、営業力という数字には現れない力であり、けっして単体では利益を生むものではありませんが、それらを司る力として非常に重要なものだと思います。

例えば、ボクが卒論で扱おうと思った人事考課における数字の教育化効果という概念(ボクの作った概念ですがw)が明らかに体に染み付いている点です。簡単に言うと、互いに親和性の低い仕事A、仕事Bがあり、Aを行った方が評価が高いとすると必然的にAを行う機会が多くなり、Aに関するノウハウが増えるというものです。

このように何を評価するかによって、評価者は被評価者の成長さえもコントロールしています。自由な成長は必ずしも組織の利益や成長には直結しないからです。

褒めると叱る

そのような人の成長をコントロールする際に、どのように叱るのか、何を叱るのかが非常に重要になると思います。

おそらく叱ることについては絶対的に悪いことと、相対的に悪いことの2つに分けることができると思います。前者は怠惰、確認ミスのような緊張感の緩み等によって発生してしまうことや、失礼な態度や明らかな知識不足などです。後者は、営業職が開発のスキルを身につけることや、人の仕事をやってしまうといった組織の合理性を明らかに損なうような場合です。

前者は置いといて、後者をどのように設定するかがひとつの成長のコントロールにおいて重要な点だと思います。

そして、叱ることの反対に褒めることも成長のコントロールにとって重要です。犬の調教は私から見れば、概ね褒めることによって促されるものが多いと思います。「お手」が出来たらエサをあげるのは、広義の褒めることです。

日本人はプロフェッショナル意識が高いのか分かりませんが、基本的に「褒める」ことをしません。個人的には「褒める」ことによって何をすればいいのか分かるようになり、成長のコントロールが容易になると思うのですが、そういう意識はあまりないのでしょうか。

進捗管理のバランス

現在ボクの作っている進捗管理のシートは、褒めるシートと叱るシートというのを明確に分けています。こう言うと大げさですが、時間軸に沿って簡単な工夫をしているだけです。

週に一度の営業報告用のシートでは、未達成の進捗が明らかになるようにしてある一方で、一ヶ月・一年単位のシートでは達成した進捗が強調されるようにしました。つまり、前者が叱るシートで、後者が褒めるシートです。

少し過去を振り返り、これからのことを考えるときには褒めるシートでムチを打ちつつ、一ヶ月・一年という長いスパンを振り返るときには目標を達成した喜びによるアメの効果があるのではないかと考えた、私なりの工夫でした。

アメの教育化効果は頻繁に繰り返すと急速に失われる一方で、効果の限界はムチよりもアメの方が高いのではないかという予想を立てました。そのため週に一回、合計で月に四回ムチを入れられ、月に一回アメをあげるのが適切なバランスだと考えています。

これを代表に報告したところ無言の了承を頂いたようで、試用は私ではありませんが経営感覚の素晴らしい代表に期待しています。

2013年2月20日水曜日

ボクのオヤジ化

ボクも23歳になって、正直言えば体力の衰えを感じ始める時期ですが、それ以外になぜかある体力だけがめっきり強くなるという逆説が常にあると思います。そんな話です。

ボクは日本酒好き

皆さん色々と個人的に好きなお酒があると思います。女性だと、ビールが苦手な人や焼酎・日本酒が苦手な人が多いように思われます。苦いお酒が苦手なのでしょうか。その半面、大体一緒にお酒を飲んで先に酔いつぶれてしまうのは男性というのがいささか恥ずかしいものです。

ボクが一番好きなお酒は日本酒です。辛口よりも、甘口(旨口?)のお酒で純米酒が好きです。なぜ日本酒が好きかというと、悪い酔いしないことが大きいです。ワインやウィスキーなどの洋酒はすごく悪酔いしてしまいます。成人式で友人の女性に抱きついた時は、ずっとウィスキーを飲んでいました。

悪酔いにもつながりますが、次に二日酔いしないことが大きいです。これは本当に人それぞれのようですが、ボクは日本酒なら一升ぐらい飲まないと二日酔いになりません。なので日本酒だと、お酒を飲んだ後も勉強できたりと、お酒の気持ちよさと勉強するという実務を同時に達成することが出来る魔法の飲み物です。

最後に『もやしもん』の影響がすごく大きかったです。『もやしもん』は、細菌が目に見える主人公が農業大学でお酒づくりをするお話ですが、彼らが作るお酒が日本酒です。正直言えば、ボクのお酒の知識はすべて『もやしもん』です。もしくは『ソムリエ』です。例えば、日本酒の果実のような香りとか精米度合いなどの知識です。高校に『もやしもん』が置いてあって、ボクのお酒に対する憧れは募るばかりでした。

『もやしもん』は、テンポの良い部分と永遠とお酒の説明をする部分があるのでちょっと辛抱が必要ですが、面白いのでオススメです。

味の面だと、正直ボクは大抵のお酒が好きです。でも、何時間もお酒を飲むには味以外の部分が重要なので、飲み続けられるのは本当に日本酒だけです。

お酒の変遷

ボクがお酒との出会いは、まずJINROでした。JINROでお茶を割ったりしたところから始めた私は、最初からJINROとお茶と一対一で割っていたので、お酒の出会いはアルコール度12.5%でした。その後大学生になって家で飲むようになると、ウィスキーをロックで飲むようになりました。ウィスキーだと簡単に酔えるので、若い時はただ酔えるだけで満足でしたね。

その後、ボクはTEAM NACSの安田顕さんに憧れてむぎ焼酎をソーダ割りで飲むようになりました。この時代が1年ほど続いて、その後日本酒に行き着きました。途中、カルピスサワーや巨峰サワーなどにうつつを抜かすこともなく、なんともオヤジくさいお酒の変遷を辿って行きました。

最近のオヤジ化

そんなボクの最近のオヤジ化は、ついにお酒を毎日飲むようになったことです。

お酒を飲むのは好きですが、毎日飲むお酒を飲む大人にビックリしていました。休肝日ってなんだ。オヤジ化すると感覚がなくなるのかと馬鹿にしていましたが、どうやらボクもその道を歩もうとしているようです。

日本酒を毎日飲むのが日課になりつつあります。

2013年1月18日金曜日

エヴァンゲリオンQ ~気持ち悪さと救い~


卒論でなんとなく時期を逃してしまいましたが、僕がエヴァンゲリオンQを見て何を感じたかについて、簡単にですが書きたいと思います。


劇場版エヴァンゲリオンQ

~気持ち悪さと救い~


基本的な感想

僕の基本的な感想は、前半というか終わりの直前まではずっと気持ち悪いと思い、そしてなぜか最後に救われてしまったわけです。

ヒントは、羽海野さんのQに対する感想に隠されていると思います。


つまり「ずっと一緒に」や「気づいたらこんな遠くまで来てしまった」といった感想が、私が最後に救われた理由でした。

「気持ち悪い」

僕がかなり終盤まで感じていたのは、「気持ち悪い」(アスカ的に言っている体でw)といった感想でした。その気持ち悪さを、端的に表すと、

同性のオナニーを何時間も見ている感覚

です。

つまり、庵野秀明監督のオナニーを、映画館で300人くらいの観客と一緒にずっと見ているような感覚でした。同性のオナニーを見ることさえ気持ち悪いのに、それを300人のファンがこぞって見に行っている感じが、更に気持ち悪さを助長させて行きました。

庵野さんの内的葛藤の中でも、作品に対する葛藤や「僕ってなんてダメな人間なんだろう」、「弱い僕に頼らないといけない世間が悪い」といった、本来人に見せるべきではない恥ずかしい感情を、作品の大半において碇シンジの内的葛藤を描くことによって投影している感覚を受けざる得ませんでした。

カヲルくんというファン

僕は薫(カオル)ですが、最初にカヲルくんが出てきたことが嬉しかったのを覚えていますw

カヲルくんは、常にシンジを肯定し続けます。「そのままでいいんだよ」「君らしく」といった言葉で、彼の目的にシンジを巻き込んでいくわけです。

実際には、シンジはカヲルくんに肯定されることによって、救われます。シンジはカヲルくんがいなければ、ただの本当のダメ人間になってしまい、何もしないことになってしまうのです(行動の良し悪しは別として)。

その悩みさえも肯定するカヲルくんの姿を見ていると、なんとなくそれがファンであるのではないか錯覚します。つまり、碇シンジ=庵野秀明、カヲル=ファンといった構図です。庵野さんを肯定し続けるファンがあそこには投影されている気がしてならないのです。

実際、カヲルくんは人間ではなく、使徒です。つまり、本質的には敵だったハズです。TVシリーズでは、最後はシンジによって殺されてしまいました。しかしながら、Qではむしろシンジをかばって死んで行きました。

つまり、TVシリーズではプレッシャーを与えるだけの敵であったハズのファンが、長い葛藤を経験している彼を肯定し続けることによって、ついには本質的には敵でありながら味方であるかのように庵野さんの中で感じるようになったのではないのでしょうか。

そして、そのように庵野さんを甘やかしてた姿をなんとなく見せられているようで、二重の気持ち悪さがありました。

エヴァとファンの人生

エヴァンゲリオンは未完の作品です(意見の別れるところだと思いますが)。未完でなければ、劇場版など作らないと思うからです。エヴァンゲリオンは未完でありながら、ファンに影響を与え、アニメ史に三千と輝く名作として歴史に名を残すことになりました。

そういった作品であるエヴァンゲリオンには、おそらく30代ぐらいのコアなファンがいます。エヴァンゲリオンによって人生が狂ってしまった人たちです。

未完のようなモヤモヤした感覚を、エヴァンゲリオンの本当の完結をもって昇華するのを彼らは待っています。しかもそれを10年単位で待っているのです。そのような感覚が、羽海野さんの「気づいたらこんな遠くまできてしまった」といった感想につながるのだと思っています。

Qという作品の役割


新劇場版の序と破は、けっして完全に新しいストーリーではありませんでした。前作を焼き直しして、昇華させたような作品です。それは庵野さんがあそこまでは納得がいっていたからです。Qから、本格的にストーリーが展開されていくのです。

Qという作品は、まさにファンとエヴァと庵野さんの10年が表現されているように思います。なぜQが14年後からスタートしたのか、1998年の『Air/まごころを、君に』から2012年がちょうど14年たったからです。

そうしないとすでにお互いに納得出来ない大きな隔たり、つまり成長や変化を我々は体験してしまっているからです。つまり、我々(ファンと庵野さん)さんには、この10年を振り返る必要があったのです。

そうしないと本当の完結に説得力がもたせられないのです。

僕が救われた理由


そのように振り返りを経て、新しく出来あがる作品はどのような作品であるべきでしょうか。僕たちはまた庵野さんのオナニーを見なければならないのでしょうか?

やはりそれは違うのだと思います。僕たちは決してエヴァを通して庵野さんの人生を見ているのではありません。僕たちはシンジや綾波レイやアスカの物語を見ているのです。庵野さんに感情移入しているのではなく、彼らに感情移入しているのです。

シンジがカヲルくんとずっといたというのは、ファンとエヴァがずっと一緒に煮え切らない感情のまま一緒に居続けたことの比喩なのです。心地よいものであっても、それがどうやっても完結しないのは当たり前です。

カヲルくんが死んで、シンジがレイと一緒にアスカやミサトさんのもとに戻ろうと荒野を歩いていたのは、まさにそのような膠着状態から一歩進みエヴァの完結に向けて進んでいることの象徴です。(僕が思うに「人類補完計画」は『エヴァンゲリオン』という大作への比喩です。)

一度は分裂した彼らが、最後一緒になって歩いていく姿に希望を感じ、僕は最後救われました。

おわりに

途中までの『気持ち悪さ』を超えて、救われた僕の感想は『次もまた見に行こう』でした。正直、30代の人達に比べると僕はそこまで影響を受けたわけではありませんが、それでも普通のアニメよりも感情移入しています。

僕もまた完結を望んでいる一人です。

最後に、僕は葛城さんが好きなのですが、小学生の時にそういう友だちがいなかったのは悲しかったでした。また、なぜか名前が似てるだけで、カヲルくんと比べられてイケメンじゃないと言われるのも悲しかったでしたw

2012年11月24日土曜日

親しき仲の気遣いとは!? ~ゼミ生の男女の人間関係~

本日は3年(僕は4年)ゼミ生のゼミプレゼンテーション大会に向けての練習で、あれやこれやと文句アドバイスしてきました。その帰り、4年生で昼飯を食べ、コーヒーを飲みに行ったのですが、その時に一番白熱した話題についてブログを書きたいと思います。



我々のゼミについて

我々のゼミは、明治大学経営学部の中でも比較的厳しいゼミ、いわゆるガチゼミとして知られています。担当教授の小笠原英司先生は経営学部の学部長を歴任し、現在大学院長という重役を務めていらっしゃる、本学部の重鎮と言って過言でないでしょう。

そのような我がゼミにはいくつかの規則があり、無断欠席はきちんとした理由がない場合には除ゼミとなります。そのような規則と並んで、ゼミ内恋愛禁止というルールがあります。どこかのアイドルグループみたいですね。

そのようなゼミを過ごし、、、

我々のゼミの男女関係はかなり良好です。一般的に仲の良いゼミと言って良いと思います。今年はゼミで、明大祭(明治大学の文化祭)に出店しました。特に男女が個人的に惹かれ合うこともなく(僕の知る限り)過ごしています。

そのような友達感覚で、仲の良いゼミです。


発端

先日、3年も交えてもんじゃ会を行いました。
宴会も盛り上がり9時にさしかかるところで、少し遠くに住んでいる4年の女子のゼミ生が席を中座して帰ることになりました。

その時、僕は言いました。

ボク:「誰か送ってけよ」

僕の席はその子から離れており、特別に僕が送るのは変だと思ったため、近くにいた男子に送るように促しました。そうすると、次のようにIくんが言いました。

I:「お前が行けよ」

と。結果、近くにいたSくんが彼女を駅まで送りました。

2次会も終わり全員での帰宅途中、また別の女の子が終電が無くなりそうになり、本体を離れ足早に帰ろうとするのを、今度は僕が一緒に改札まで送りました。

その後、行き先が一緒の本体(つまり、他の男性ゼミ生)と合流し、帰宅することになりました。


今日の議題

今日のゼミ生での議題は、

「男子ゼミ生が女子ゼミ生を送るべきかどうか」

でした。

議論したのはボク、最初の女子ゼミ生を送ったSくん、「お前が行けよ」発言をしたIくん、そしてその日の宴会に欠席したEくんです。基本的には、ボクとSくんが送るべき派、IくんとEくんが送るべきではない派です。

まず、もんじゃ会でのボクの「誰か送ってけよ」という発言の真意を聞かれました。

ボクは以下のように説明しました。
ボク:「女子ゼミ生と話した時に「うちの男子に帰りに送ってもらうという発想がなかった」と言われたから、一応気を使ってみた」

そうするとIくんが言いました。
I:「もんじゃのお店から駅までが遠くないから送る必要がない。特に何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性もない。これが危ないところ、裏路地とか歌舞伎町ならまだしも、危険性がないなら送る必要はない」

そうするとSくんが言いました。
S:「いや、そういう事ではないんだ。気持ちの問題なんだよ。送ってもらった方がいい気分になれるじゃん」と。

そうするとEくんが言いました。
E:「つまり、男子が女子を送るということは、下心があるってことだろ?なんで、うちの女子にそんな気を使う必要があるのか?」

そうするとSくんとボクが言いました。
S:「いや、下心というわけではないんだけど、、、」
ボク「下心がないわけではないけど、別に恋愛につながるような下心ではないんだよ。」

Eくんが下心のない親切に対して次のように言いました。
E:「いちいちそんな気を使う必要ないだろう。それなりに親しいのに、何を今更そんなことする必要あるのか。」

彼にとって、女性を送るという行動は、下心があるのか、それともわざわざ気を使わないといけない関係の場合のみに行われる、という非常にわかりやすい論理なのでした。

Iくんは、経済的、身体的な明らかな損害がないと思われる場合には送る必要がない、というこれまた分かりやすい理由でした。

ボクとSくんにとっては先に帰る女性を送ることが当たり前であり、そのことをどのように伝えるのかが重要な点でした。またこの会話の端々には、女性を送るようにしようという一種の強制のような提案をIくんとEくんに行なったため、議論が白熱してしまいました。


新しい論理展開

議題の方向性を変えることにしました。もし、対象が後輩になった場合にはどうするのかという事でした。

Iくん、Eくん、Sくんの場合には、基本的には性別関係なく送る(そうは信じられないですが)。ボクは後輩が男子だったら、ケース・バイ・ケースで送る、女性なら送る、というものでした。

まず、ボクとSくんは先輩・後輩のケースと同様な思考で女性を送るという発想に至るということを説明しようと考えました。

S:「先輩のお酒がないときに気を使ってお酒を頼んだり出来ない後輩はダメだろっ!?」

そうするとEくんは言いました。
E:「確かにそれはあるけど、女子のゼミ生にそれをやっても今更感がすごいじゃん。」

そこでボクは先ほどの対象が後輩のケースで説明しました。
ボク:「やはり僕達には先輩としてのプライドがあるし、後輩への愛情もあるから、そういうものと同じ要領で女性を送る。」

と、ここでSくんが付け加えました。
S:「女子から、「送る」程度の期待感も煽れない男子としての僕らの姿がダサい」と。


男性としてのプライド

Sくんとボクは自分の理想とする男性像から、女性の期待感を煽れない男性はダサい、というプライドを持っていたのでした。

一方、IくんとEくんは僕らの論理とは全く違うものを持っていました。
彼らは、男性陣に「送る」という発想さえ与えられない女性陣に問題があると考えていました。

つまるところ、
かくあるべきだという男性の理想に差があったのでした。


果たしてこれから送るべきなのか

議論を重ねたところ、両社には埋まらないだろうギャップが有ることが明らかになりましたが、まだ本題である「送るべきか、送らざるべきか」については議論の余地を残していました。

最初に口火を切ったのはIくんでした。
I:「途中で席を中座して場を盛り下げるようなやつを、なんでわざわざ送らないといけないのか」

Sくんとボクが反論しました。
S:「一人帰る程度でそれほど残る奴のテンションが下がることはないと思う。」

そして、むしろ帰る人の気持を尊重し、それが残る人の気持ちに与える影響を似たケース、つまりサークルやバイトでの飲み会を参考に説明することにしました。

S:「例えばバイトの時に、先に帰ろうとする人がいたら、送るだろう。別に駅まで送る必要はなくて、エレベーターまででもいいから送るようにすると思う。」
ボク:「飲み会をするなら、なるべくみんなに楽しんで欲しいでしょ?先に帰る人は席を中座するわけで、どうしても申し訳ない気持ちになったりするわけだ。それのフォローというわけではないけど、一応飲み会の他のメンバーが気にしているということを、たった一人が送るだけで表現できるんだよ。」

そうするとまたEくんが個別事象である我がゼミでの適用必要性について言及しました。
E:「でも、うちのゼミには全体の合意として表現するべき気遣いがないわけだから、だったら送る必要はない。」

ここまで来て送るべき派であるボクとSくんは、新たな説得方法を思いつきませんでした。


ギブ・アンド・テイク

ここで個別関係に普遍的な原理を応用してみることにしました。いわゆるギブ・アンド・テイクです。
お互いに何かを与え合わなければ関係を保つことが出来ないということです。

ここでEくんとIくんは、特に女性陣から何も与えられないから与える必要はないと主張しました。

一方、Sくんは次のように言いました。
S:「ギブ・アンド・テイクって言葉にある通り、ギブしなければ始まらないんだから、まず送ってもいいんじゃないか」
それにボクが付け加えました。
ボク:「つまり、僕らが女性陣を送るんだから、僕達が先に帰るときには女性陣に送ってもらうことは、それなりに要求しよう」

ここまで来て、円滑な人間関係、組織運営という新たな主眼を得て、EくんとIくんは自ら結論を得ることになります。


エレベーターの法則

Eくんは、エレベーターの法則という彼なりの倫理観からこういう結論を下しました。
E:「つまり、女子を送るというのは、エレベーターに一番最初に入ったやつが、エレベーターの開くを押すのと同じわけだ。別にその場でギブが返されなくても、社会全体として還元されればそれでいいってことか。」
I:「そういうことなら分かるわ。」

結果、彼らはエレベーターの法則という、彼らの社会生活上の倫理観から新たに女性を送るという価値についての存在を認めることになったのでした。


結論

しかしながら、まだ個別事象としての我がゼミでの場合について考えるEくんは
E:「でも、基本的には下心があるやつが率先してやるから、今更やるのは気持ち悪い」

そこで、ボクが言いました。
ボク:「分かった。ボクとSには、別に恋愛に繋がる下心があるわけではないけど、それなりの下心があるわけだから、絶対に下心がないEとIがやればいいんだよ。そうすれば、Eの心配はなくなる。」

こうして今後はEとIが女性陣を送るという結論に至りました。


追憶

この話し合いを経て、ボクが過剰に女性に対して気を使っていることが明らかになりました。それはやはり浪人生までのボクの価値観が強く影響していると言ってよいでしょう。

ボクは基本的な男性のヒエラルキーがあまり好きではありません。それは自分のヒエラルキーが低いことはもちろん、上位のヒエラルキーの下位への扱いが酷いと感じるからでした。ヒエラルキーの内部にいる以上、そのような下位への不躾な対応もしなければなりません。

そこでボクはヒエラルキーを離れることにしました。そこで利用したのが、女性陣の力でした。普通よりも女性陣と仲良くすることで、男性陣のヒエラルキーとはまた違う方法で自分のポジションを整えるようにしました。

そのため女性陣の機嫌を損なわないようにすることは、ボクにとっては死活問題でした。それが女性への過剰な対応に繋がっているのではないでしょうか。

皆さんは、飲み会で先に帰る女性を送りますか?

2012年10月15日月曜日

TEAM NACS ~彼らの関係性~


こんにちは、こんばんは。
お酒の飲んだ勢いでこのエントリーを書いてます。
KoR89こと、畠山薫です。


『TEAM NACS』

TEAM NACS(チーム ナックス)という演劇グループをご存知でしょうか?

俳優・大泉洋が大学生時代から参加する演劇グループです。
Wikipediaを参照すると、以下のようになります。

TEAM NACS(チーム・ナックス)は、日本演劇ユニット。及び、北海道ローカルのテレビ番組に多数出演をするグループ。
北海道札幌市にある芸能事務所・CREATIVE OFFICE CUEに所属し、大手芸能事務所アミューズと業務提携を行い「北海道以外の全国区の仕事は、全てアミューズが手がける。」と言うシステムを執っている。
彼らの最大の特色としては北海道発、そして北海道を中心に活動していることです。(もちろん大泉さんは全国区に活動の軸足を移しているように、他のメンバーもリーダー・森崎さん以外は活動の軸足を全国に移しています。)

彼らの最新公演「WARRIOR〜唄い続ける侍ロマン〜」では、「今、もっともチケットの取りにくい劇団」と評されるほどに、その勢いは演劇界に一目置かれる存在になったのではないのでしょうか。

彼らの公演は東京に進出した「LOOSER」から前作の「下荒井」に至るまで、一貫して5人だけで公演を行なって来ました。(最新作から他の劇団員も参加しています。)彼らはたった5人で、年約60公演を行って来ました。

彼らの魅力はなんといってもその仲の良さです。
大学のサークル(北海道学園大学・演劇研究会)を母体とした、いわゆるサークルのりの関係性は多くのファンを惹きつけています。特に彼らの冠番組である「ハナタレナックス」では、その仲の良さを垣間見ることができます。DVDも発売されているので、ぜひ購入していただきたいです。

しかし、彼らの関係性は決して順風満帆なものではなく、解散の危機があったことが5月に放送された「ハナタレナックス」で示唆されています。

解散の危機

解散の危機をファン(僕を含めた)が感じていなかったかと言われると、実はそうではありません。

2000年前後の関係性は、所属事務所の社長である鈴井さんが企画・構成していた「鈴井の巣」を見ても分かる通り、かなり良好のように感じられます。まだ20代のメンバーが多く、雰囲気もこれからの生活の不安もなく明るいものに感じられます。

その後「ハナタレナックス」は始まり、当番組で例年行われる沖縄ロケなどを見ても彼らの仲の良さを伺うことができます。その後の東京進出と彼らは演劇人・芸能人として確実にステップアップして行きました。

しかし、その関係に反比例して彼らの関係性は変わって行きました。

まず、大きくステップアップしたのは大泉洋でした。
大泉洋は、昨年2011年の日本アカデミー賞主演男優賞を取るような、日本を代表する俳優に成長しました。彼の活動の軸足もすでに北海道にあると言えないほどに、東京に移されています。彼は実に多忙で、「ハナタレナックス」をはじめとする『TEAM NACS』の活動に確実に支障をきたすようになり、大泉洋自身が番組内で「こんなことするために北海道に帰ってきたのか」という発言を度々繰り返すようになっていました。

元々、『TEAM NACS』自体が大泉洋の人気におんぶに抱っこの状態から始まりました。
メンバー自身も当時から認識していたのように、「水曜どうでしょう」で人気を博した大泉洋を使って集客し、他のメンバーの魅力に気付いてもらいながら客足を伸ばすという戦略を取っていました。

もちろん今では大泉洋・一強時代は終わりましたが、圧倒的に大泉洋が知名度が高いことは変わりありません。それが以前までは北海道内で収まっていましたが、現在では全国区になり単純に知名度の差は以前よりも大きいのではないのでしょうか。

次に森崎さんを除いたメンバーの東京進出です。大泉洋に続き、他のメンバーも続々と東京進出を果たすようになります。彼らの中には、「東京に進出して全国区で成功することは、北海道内での評価を更に高めることになる」という認識があるようです。

東京に進出することにより、仕事の幅も種類も多様になり、メンバーも「自分のやりたいこと」が見つかるようになったようです。

そうしてメンバーの方向性が徐々にズレて行ったのが、解散の危機の一つの原因でした。

もう一つの原因は、関係が煮詰まってしまったことでした。
彼らは、「LOOSER」の東京進出、そしてその後の全国公演というプレッシャーをたった5人で背負うことになりました。おそらく所属事務所であるOFFICE CUEが、他の劇団員を客演として呼ぶ程の金銭的な余裕がなかったのではないのでしょうか。

その全国公演のプレッシャーに、リーダーで作・演出の森崎博之は結果的に意見をメンバーに求めるようになります。以前の「WAR」のメイキングを見ると分かるように、森崎博之がメンバーをかなり引っ張っていた印象があります。

しかしながらメンバーが作品に意見をいうようになり、結果的にみんな納得のいく作品(脚本)を作り、それを演じるというスタイルに変わって行きました。結果、メンバーの話し合いで議論が平行線をたどり、行き詰る時間も多くなったようです。

そのようにして結果的に誰かが我慢しながら作品を作ることになり、これが演劇することにこだわりをもつメンバーにとって亀裂を生む原因になったようです。

結論としては、メンバーの方向性の違いと演劇への意見の相違が、私達の分かる解散の危機の原因でした。

「WARRIOE」

一時は解散の危機さえ感じた関係性が近年、特に「WARRIOR」を迎えるにあたってかなり良くなった様にいちファンとしては感じています。その関係性は、2000年前後のそれに近づいているように感じています。

彼らの心境の変化とは一体何だったのかを正確に知ることはできませんが、森崎博之の「死ぬときに思い出すのは、家族と「TEAM NACS」だ。それぐらい僕にとって大事な存在である。」という言葉に全てが現れているのではないのでしょうか。

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズもガンを期に人生観が変わったことを告白していますが、死を意識することが考え方に与える影響は計り知ることが出来ないのではないのでしょうか。もし余命が1年しかないと言われたら、今もっているもの(家族、友人、同僚など)を大事にするのではないのでしょうか。

彼らは、やりたいことが見つかる30代の終わりを迎え、自分が本当に大切にしなければならないものを知りました。

まさに『論語』の

「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したご)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」http://www2s.biglobe.ne.jp/~kuribou/rongonokotoba.htmより)

の道中にいるのではないのでしょうか?